スペースキャノンⅠ
SANKYO
発表時期 |
1988年
10月
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種別 | 2種 |
玉貸機 |
現金機
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羽根開閉時間(落とし、センター) | 0.35秒、0.45秒×2回 |
カウント&最大継続回数 | 10個&8回 |
賞球数 | オール13 |
発射台から玉が打ち上がるという目で見て楽しめる羽根モノ。また、始動チャッカーに入って開くのは羽根ではなくミニアタッカー。
V入賞後は発射台に乗った玉が5カウント後に打ち上げられ、その後は乗るたびに打ち上げられる。
パチンコ雑誌編集部の愉快な仲間たち
これまでに関わったパチンコ雑誌(いわゆるパチンコ攻略誌)は多数あるが、比較的早い時期に在籍したパチンコ雑誌編集部は元パチプロ(スロプロ)たちの巣窟だった。有名大学卒業の元パチプロ、有名大学中退の元パチプロ、得体の知れない元パチプロ…。
出社時刻は決まっていたが、その時刻に出社するのは私だけ。編集部の掃除をし、ごみを捨てに行き、お湯を沸かした頃から少しずつ編集部員が集まってくる。もっとも、私も後輩ができてからは午前中に出社すればいいか、くらいに考えていたが。
電話が鳴る。取り次ぐ。すると、友達と話すかのような馴れ馴れしい口調で話す編集部員がいる。聞くと、某メーカーの社員と話していたのだという。マジ? 職歴はパチプロのみ、みたいな私でも、それはどうかと思うのだが。
ヒット機種の写真を借りたいからメーカーに電話しろと編集部員に言われた。頷いて某メーカーに電話し「広報の方をお願いしたいのですが…」と切り出すと「広報? ウチにはそんなもんはねえよ」とガチャ切り。私、何か、悪いことした?
電話といえば、かけてくる側の対応も酷かった。「〇〇君、おるぅ?」。いや、その前にお前は誰だ? という言葉を飲み込んで名前を聞くと再び「〇〇君や」。仕方なく取り次ぐと〇〇氏から「誰から?」と聞かれる。「いや、あの…名乗られなくて…」としどろもどろになる。まあ、そのうちに慣れるのだけれど。
私と入れ替わるように辞めた編集部員がいて、その理由を聞いたら「実戦で100万円以上負けたらしいよ」。その編集部はホールでの実戦費用が編集部持ちだった。数ヶ月で100万円以上負けたということだったが、いくらパチンコに詳しくない上司ばかりでもやりすぎ注意ということだろう。
ただ、元パチプロたちだけあって、話は合った。パチンコの深い話をできる人は意外に少なくて、見栄を張っただけの与太話や、オカルトめいた攻略法を聞かされてもうんざりするだけ。しかし、彼らは一般常識はともかくとしても、長くパチプロをやってきただけあってそれぞれが一家言を持っていたし、独自の攻略法の話や地域独特の立ち回り方、東京に設置されていない機種の話などで盛り上がった。特に自分より若いのにどんなパチンコ・パチスロの話を振っても付いてくるU氏には感心させられた。
締め切りに追われる仕事自体は身体的にはキツかったけれど、自分が書いた原稿が本になった際の喜びもあって、慣れるにしたがってどんどん楽しくなっていった。友人からは「天職だな」と言われたが、自分でも天職かもしれないと思ったものだ。もっとも、その後、転職(正確には職業を変えるのではなく、編集部(職場)を変える)するのだが…(笑)。
スペースキャノンⅡも各都道府県の認定を受けているが詳細不明。