天下取りの条件提示(第三弾)
懐かしのパチンコ台を語るってのはええ加減飽きたと思うのですが、何分にも話には前置きというのがありますので少しばかりおさらいをさせてください。重複する内容がたくさんありますけど、時系列で紹介していきます。5周年セールと銘打ったお話は今日で終りで次回からは通常営業に戻ります。
1986年に三共からスーパーコンビという一発台が発売されまして時代は大きく変化することになりました。盤面のどこか一か所に玉が入れば14000円くらいのお金を手にすることになるので、パチンコは遊技機ではなくて博打機という事になりました。その前のフィーバー機の発売でも十分博打機ですが、デジパチは出玉を制限されて生き残ったのに、一発台はある理由で生き残ることができませんでした。それは釘曲げという奴です。
かなり見難いですが写真の右から2番目のチューリップを見て頂きたいです。釘の形を無理やり変形させて玉がここに集まりやすくなっているのが分かります。コンビ3つ穴の手前に入ると落下した玉の入賞によって中央にある緑色のチューリップが開きます。このチューリップの右端に当たった玉がその右側のチューリップに入り続けることで5000発くらいの玉を獲得するような仕組みになっています。短時間で抜かせるために、パチンコホールはその右側のチューリップの釘を思いっきり曲げて玉を誘導するような営業を行いました。問題となったのは釘を曲げて出玉を獲得し易くするという事は遊技規則に抵触するのではないかということですね。このような理由から一発台は一気に市場から姿を消すことになります。概ね1986年から1988年頃まで一発台は、パチンコホールの主役だったし、何よりも新装開店のときに威力を発揮しました。デジパチの開店基板は認可されないけど、一発台の場合はそんなもん使わなくても大丈夫。6時開店でも、殆どのお客さんが勝って帰れるような釘調整を施したからです。6時オープンの場合、デジパチでは大当たりしないことも珍しくありませんが、一発台が一度も当たらないって事は滅多になかったです。
一発台は一回交換です。一撃の魅力と威力はあったにもかかわらず、この時代に私は1日に10万円以上勝つことは一度もありませんでした。初めて10万勝ったのは1990年代に入ってからというのは以前にも書いた通りです。一回交換というのは、現金投資に耐えられない時期が来るのでそうそう長時間遊技はしてられません。でも一度だけもしかしたらという機会がありました。三星から発売されたセイヤという一発台。東海市にある柿畑一番館というお店での出来事です。
このセイヤという台はスーパーコンビとは違って上部にある飛び込み口にはよく入るんですが、その下の三つ穴の中央にはなかなか入らないんですね。3つの穴の真ん中に飛び込めば大当たりですが、その真上には風車が付いてるので大抵は左右のハズレ穴に飛び込むわけです。ところがある日のこと飛び込み口の甘いセイヤを発見したので遊技し始めると、私が打った台は左右の釘に衝突した玉が勢いよく跳ね返ってズキューンバキューンと真ん中に入るんです。何かの物理的条件が働いたのでしょうが、兎に角今まで見た玉の動きとは異なる物理現象に戸惑いながらも投資を続けました。上部のクルーンには入りっ放しですから比較的使うお金も少なくて済みましたね。およそ2500円から3000円くらいのペースで当たり続けるんですね。当たる耽美に13000円程度のお金を貰うのですが、それが9回も続いたのです。3時までに9万円勝ちました。
今日は凄いことになりそうだ。
そう思った瞬間でした。店の幹部と思しき人間がのこのことやってきて、俺の顔を睨みながらこの台打ち止めなって言うやいなや遊技台のガラスを開けて中に「打ち止め」っていう札を入れやがったのであります。いうなれば私はまだ遊技したかったのに、店の勝手な裁量で遊技不能に陥ったわけであります。
こんなことが許されて???
この日は丸1日やってれば20万くらいは勝ってたよね?それくらいよく入るしよく当たるし気分は最高潮だったのですが、理不尽な強制退場によりまして私は10万勝ちに手が届かず涙をのんだわけであります。今なら有り得ないお話ですが、当時は何をやっても許された時代です。一発台が時代を彩ったのは1986年から1988年ごろまでで、そのあと登場するのはオマケ付きデジパチであります。1988年から1989年にかけて登場したのが奥村のドリームX。おまけ付デジパチというのはアタッカーの両サイドに小物入賞口があってそこで出玉を獲得できる仕組み。ドリームX、コスモⅡ、エキサイト麻雀辺りが大流行した時代にあって私が大好きだったのが西陣のファンキーセブンという台ですね。
いいですか。今では海物語の代名詞ともなっているワープルートですが、これを初めて採用したマシンがファンキーセブンです。天穴に入賞すると玉が矢印の方向に落下してヘソに収まります。この動きを見るのがたまらなく好きだった。これも柿畑一番館という店で打つことが多かったのですが、千円で50回転くらいは楽勝でした。これもオマケ付の遊技機です。一発台がなくなって以降、シビレルような感覚を求めるお客さんのニーズにこたえようとしてパチンコメーカーが出玉の補助を考えたということですね。普段は画像のVと書かれたところを 囲んでいるアタッカーが大当たりして全開すると、その両サイドにある小物入賞口に玉が導かれて出玉の獲得につながるのですね。特賞出玉は2000発というのが機械の仕様なのですが、ここでも釘を曲げるという事で2000発が2400にも2500にもなった時代。釘を曲げるという行為は一発台で否定されたにもかかわらず、この時代でも色濃く残ってしまいました。
一発台が持っていた射幸性能にとって代わる何かが必要だとされた時代です。
皆様は出玉に代わる何が必要だったのか分かりますか?
ドリームは空前の大ヒットを飛ばしました。この台は普通に調整すりゃ出玉2000個の遊技機なのですが、オマケを工夫することで2500個までの出玉拡大で射幸心を煽りましたが、それだけでは飽き足らずパチンコホールが独自の工夫で集客を図ったことがあります。それは朝一モーニング制度とラッキーナンバー制度です。朝一の9時から10時までに大当たりすると、持ち玉で遊技できるという利点を付けることにしました。これで朝からデジパチの島に群がる客が増えました。それに加えて絵柄によっても、持ち玉で遊技できるようにしたり交換しないといけないようなルールを作りました。数字でいうならば3と7で当たればラッキーナンバーだし、4と9で当たれば交換ナンバーです。この制度を作ったことが後々の禍根につながります。
求められたのは「客滞率」ですね。
パチンコの客滞率が大幅に向上して、簡単に10万円以上勝てる環境が作られてしまいました。ギャンブル依存症というのは大きく勝てれば勝てるほど深刻な病になるかと思いますが、そのキッカケになった出来事が朝一モーニングとラッキーナンバー制ですね。私も1回交換の時代には一度も10万円以上勝ったことがなかったのに、持ち玉遊技制度になってから、権利物ツインズ、保留玉連チャン機、フルーツパンチ、ブラボーキングダムという機械によって10万円以上の勝ちを頻繁に体験するようになったのであります。ギャンブルか否かの議論では、10万円という金額が目安にされていますね。今でも大海物語や沖縄が1回交換というルールだったら簡単に10万円以上勝つことはできなくなりますよ。それくらい1回交換と持ち玉遊技というのは大きな違いです。
ドリームを発売したときに、持ち玉遊技制度を導入したことが時代を変えました。
この時期を境としてギャンブル依存症患者が増殖されたのではないでしょうか?
1991年になってから時代はさらに加速します。デジパチはおまけチャッカーの釘調整でせいぜい2500発程度しか出せなかったのですが、権利物と呼ばれる遊技機は一撃で4000個の出玉が獲得できました。しかもこの4000個が保留玉で連チャンが発生するという遊技機が生まれたからさあ大変です。今まで何度も書いてきましたが、これが大一のフルーツパンチであり、これがパチンコ史上最も勝ち易い機械でした。大当たり確率が1/240で一撃4000個の連チャン機。千円で40回転も回る調整台になると期待日当は10万円まで膨れ上がりましたが、それを可能ならしめたのは保留玉では当たらない可能性を秘めていたから。回る台ほど当たらないフルーツパンチは、甘い甘いと思わせる店の戦略にはまり、客もまたその罠に虜になりました。単発回しをすれば1/240なんですけどね。みんな単発回しなんてしないよね。大当たりするまでは単発回しで遊技して、一旦大当たりすれば、右上のチューリップに4個入賞を狙いつつも、時折左に回してヘソの入賞を狙う。今で言うと銭形のヒネリ打ちみたいなもの。そんなことできるのかって思われそうですが、それをやるから技術介入というのです。ツインズ以降の出来事ではありますが、1回交換というルールで10万円以上勝てた唯一無二の機械。それがフルーツパンチです。
フルーツパンチの一撃の魅力に虜になった人は数知れずの時代にあって、さらに輪をかけて射幸心煽ったのが藤商事のアレジンです。GOチャッカーを通過すると抽選ですが通過チャッカーなので賞球はなし。大当たり確率もゼロという悶絶マシンは何かの契機で777が揃うと2000発ループの悶絶連チャン機に変身。大当りするとラクダの羽が開いて真ん中に入ると権利発生です。1日に20万負けるのも簡単ならば、1日に20万勝つのも簡単なこの機械では、借金で首が回らず夜逃げする人たちが続出。事態を重く見た政府がついに重い腰を上げざるを得ない状況にまで追い込まれました。このことがきっかけで平成8年の第一回のめりこみ対策につながるし、ギャンブル依存症=パチンコ依存症といわれるようになるのです。パチンコがギャンブル化への道を進んだのは、フルーツパンチとアレジンが原因だといっても過言ではないでしょう。平成初期に登場したこの2大マシンはいつの時代にあっても触れないわけにはいかないのです。
1991~1992年は、機種のバラエティ化が進んだと同時に射幸性能が大幅にアップするのですがこの流れはハネ物にまで影響されました。私が今までで一番好きだったハネ物は、ニューモンローという機械なんですけど、兎に角出玉スピードが抜群に早かったですね。反面Vが辛いので、2000発、3000発飲まれも当たり前のようにやってくる。オトシに入って拾われた玉はほぼVには来ない。当たる条件はセンターチャカーに玉が入るとハネが2回開くけど、その1回目に拾われた奴だけにチャンスがありました。羽根が開放する1回目はモンローが水着を脱ぐのですがこれがパッと開いてそこに当たった玉がカーブを描いて丁度真ん中に来るような仕組みでした。因みにモンローちゃんが水着を脱ぐと、その内側はおっぱい丸出しのヌードでしたね。肩に入ればセンターチューリップが開放してここに玉が入ればハネが開くという事なので、この台の急所は肩の三角形とヘソへの寄り釘。それ以外ではハカマのズレと落としの大きさ。それにハネ付近の寄り釘という事で調整する箇所が何か所もあったので釘調整を勉強するには本当に良い遊技機でした。
時を同じくして盛り上がったのが保留玉連チャン機。初っ端に大ヒットしたのが平和の麻雀物語でした。麻雀物語は保留玉1~4が全て1/16で連チャン。パワフルⅢは保留玉2~4個目までが1/16で連チャン。だから現行の甘海よりも連チャン期待値は低いのですが、1発1発のパンチが重いので保留玉に目を凝らす当時のお客さんの情熱は凄かったです。甘デジみたく400個程度の連チャンなら誰も見向きもしないけど2300個の連チャンには人の心を惹きつける強烈な何かがありました。ということで、一発台がなくなってからこの業界は、デジパチ、保留玉連チャン機、羽物、権利物、アレパチと全てのジャンルにおいて、射幸心を煽る風潮が広まって行くのです。
そして極めつけがコレです。
CRを最初に出したのは平和の名画と西陣の球界王でしたけど、そのちょっと後に出た黄門ちゃまが1/3突入であと2回ループ。確変で当たると3連チャン以上は確定ですが、3回目に確変絵柄で当たると5連チャン以上確定。5回目に確変絵柄で当たると7連チャン以上が確定という事で確変中のリーチ絵柄というものにはことさら熱く燃えた時代でございます。1/394.3の爆裂マシンは保留玉連チャン機の時代に比べるとケタ違いに当たらなくなったわけですから、お金を使うスピードに関しては今の時代に通ずるものがあるなと思います。この機械が発売されたころから、確変という言葉が定着したということですね。CR以前の機械では、出玉の盛り方は色々一工夫あったのですが、黄門ちゃま以降は確変でしか客の心を満たせないようになります。
パチンコは1982年に三共のフィーバー機が登場してから、射幸心の煽りと抑制の繰り返しですが、振り返ってみると特に1986年から1995年辺りまでが最盛期であって、この10年間に学ぶことはないのだろうかと思いますね。勿論できることとできないことがありますけど、やれることがあるならば温故知新も良いでしょう。
1982年 三共のフィーバー機登場
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1986年~1988年 一発台全盛期
1989年~1990年 オマケ付きデジパチ全盛期(モーニングとラッキーナンバー制)
1991年~1992年 権利物と一般電役とアレパチの全盛期
1991年~1993年 保留玉連チャン機全盛期
1994年~1995年 CR確率変動。あと2回ループの全盛期
今日のお話は実はここまでが前置きで、ここからが本題になるのですが、1986年~1991年頃までは、私は愛知県の半田市というところが生活の拠点でした。その頃パチンコはハネ物、オマケ付きデジパチ、一発台、権利物、保留玉連チャン機という選択肢がありましたので、チマチマやる人間から一攫千金を狙う人間まで幅広いニーズに対応したギャンブルでした。今回写真を掲載した機械の中で、アレジンとCR黄門ちゃまだけは絶対に認可してはならん商品だと思うし、この世界にだけは戻れないと認識しております。しかしそれ以外の遊技機については、今の時代にあったらすごく良かったのにと思える商品です。
実はアレパチとCR確変機以外の遊技機を、ひとつのメーカーだけで構成したパチンコホールがあったんですね。東海市の富木島というところにイシバシという家電量販店がありました。のちに関東のセキドというグループ傘下に入ったのでセキドイシバシ東海店というお店になったのですが、私が担当してた時はイシバシ東海店という店名です。NEBAには加盟してなかったんで地域量販店と呼ばれました。こういった地域に根付いたお店というのは、本部商談がないので店に並べる商品のラインアップもNEBA加盟店とは全然違います。シャープのシェアが圧倒的に強かったお店です。こういうのは結構あるんですよね。大手の量販店はソニー、ナショナル様様で強い家電メーカーに尻尾振るしか能がないんですけど、ちっちゃい量販店では案外両社を嫌います。何故ならば、ナショナルの営業マンは殿様商売だからお店の言うこと聞かなくてエラそうにしてるから。それに比べてシャープ、三洋、ビクターでは頭低いから案外この手のお店には好かれるのですよ。そんなわけでナショナルよりもたくさん商品を買ってくれるから毎日とはいかないまでも2日に1回くらいは来てたでしょうか。来るたんびに何がしかの商品を売りつけるわけですけど、商談が終わってからが問題でした。気もそぞろという奴です。何故かと申しますと、この店の真ん前がパチンコ三洋だったから。店を出て帰ろうかと思ったときにネオンが目に入るともう駄目でしょう。無論この店だけでなく、近くにはゴールド7、大京という強い店があったのでこの3店舗を見て 回ります。私は水曜日と日曜日が休みなので、その前日は必ずここにきて仕事帰りに店を徘徊してました。そこで勝てそうな台を見つけると翌日そこに出向いてチンジャラ三昧となるのでした。
※本部商談⇒家電メーカーと家電量販店は両社首脳陣が発売前に事前商談を行い、店の規模に応じて陳列する商品構成を決めてしまいます。その時点でソニーやナショナルは優遇されますが、シャープ、三洋電機辺りになるとけんもほろろの陳列構成になってしまいます。
※NEBA⇒日本電気大型店協会。2005年に解散。
リューイーソー
1986年から1990年ころまではこうした行動パターンが多かったです。この頃のパチンコ三洋はパチスロはなくて全台パチンコ島ですが、驚いたことに1コースから8コースまで全てが自社商品でした。1コースは全台一発台で、2コースと3コースはオマケ付きのデジパチ。4コースが権利物と一般電役。そして5,6,7,8コースは全てハネ物ですよ。1コースで36台あるのですが、大体5台から9台くらいの割合で異なる機種を設置してました。どういう仕組みでそうなってたかはよく覚えてないし知らないのですが、多分発売しなかったお蔵入りの機械をこの店に設置して遊ばせていたんでしょうか?兎に角他のお店にはおいてない遊技機しかないんですよ。一発台、権利物、デジパチ、ハネ物を全部で50種類くらい設置してあって、そのうちの殆んどの機械がここだけにしか置いてない遊技機だったので、私は時間が経つのも忘れるほど夢中になって遊んでおりました。
楽しかったのであります。
50種類くらいの遊技機が、初めて見るような台ばかり。全部打つと何日かかるのか分かりゃしない。この頃は勝ち易さでいえば、近隣のゴールド7と大京の方が上。だから私自身の稼動のメインもそっちでしたが、たまに行くとこがなくなると必ずここにやってきて、初めて見る機械に触れて1日を満喫するのであります。皆様は海しか作れないメーカーだとか、海が偶然ヒットしたおかげで今があるみたいな事を言うのですけれど、決してマグレなんかじゃありません。この当時の様子を知っている人は殆どいないと思うのでこういうことを書くんですが、三洋物産という会社はこの頃から機械開発の能力は長けてましたね。なんせ世の中に流通していない遊技機ばかりを50種類も設置してて、実際に遊技するとどれを打っても面白いのですよ。私はハネ物を打つことが多かったけれど、一発台、権利物、デジパチ全てが個性的。今で言うならばダイイチの商品開発に似てるかな?そしてなんでか知らんけど、盤面とか役物は緑色の機械ばっかり。だから店に入ると店内が緑一色(リューイーソー)なんですね。
当時は三共と平和が2大スーパースターで、三洋物産は名古屋4大メーカーの一角。然しながら直営店にずらりと並べられた個性的な商品群を見て、私はいつかはこの会社がテッペンをとるんだろうなと密かに思ってましたね。それくらいこの会社の商品開発能力は魅力的でしたし、遊技機業界の頂点に君臨する素地はあったのだと思います。海物語が出ても出なくても、いずれこの会社は三共や平和を超える物つくりをしたに違いない。結局遊技機メーカーに求められるものは、島屋なら独創性豊かな島設備だし、機械メーカーなら独創性と多様性のある機械開発という事になるのでしょう。決して版権を取ることだけが彼らの仕事じゃないはず。そして自分たちが作った機械だけで、お店の遊技機全てをまかなうというのが直営店に求められる使命ではないでしょうか。
この後私は生活の基盤を、三河から尾張へと移動。それに応じて遊技機メーカーの直営店も、奥村、正村、ニューギンと渡り歩いて見るようになりました。残念なことにこの3企業の直営店では、自社商品の割合はせいぜい2割程度でしたね。従って私が知る限り、メーカーの直営店を自社商品だけで構成したのはパチンコ三洋ただひとつです。こういうことは、私が書かない限りみんな知らないで風化すると思うので書いてみました。生きている間にできるだけ皆様にお伝えせねばという気持ちがあるし、皆が知らないことを書いていくことが私に課せられた責務なのだと!直営店の遊技機全てを自社商品でまかなうというのは大きな意義があると思います。経営の柱となる他社製品を入れずに自分達の商品だけで、お客を呼んで経営を成り立たせるわけですから一大事ですね。こうなると開発する方も必死でしょう。
相乗効果が期待できます。
開発スタッフが良い商品を作り続けないと、自分たちのお店が成り立ちません。奇想天外なものからオーソドックスなものまで幅広く用意する必要があります。自社商品だけで、お客が埋まるようになったら開発陣のスキルもアップするし、それが業界の繁栄につながります。何から何まで良いことづくめです。然しこれを実現するためには相当の覚悟と労力が求められます。でもこれこそが遊技機メーカーに求められる使命ではないでしょうか。ゴールデンウィークの翌週、犬夜叉という台を打ってる時にふとそう思いました。天下一閃、うしおととら、犬夜叉は何れも良い商品ですね。ダイイチの商品開発能力があれば、一店舗を同一企業の商品だけで埋めるのは可能かも知れませんし、逆に言えばダイイチにしかできないことかもしれません。今三洋の直営店を海物語だけで支配しても、それは単なる水族館でしかありません。実現するためにはそんな陳腐な発想では無理でしょう。
ダイイチという企業の開発魂に期待を寄せるこの頃です。
パチンコメーカーが作る遊技機が起爆剤にならない限りパチンコは盛り上がりません。規則改正により、出玉よりも機械の多様性が求められます。画一的な遊技機の開発では、自分たちが作る商品だけで店を埋めるのは無理でしょう。最近のダイイチの商品開発を見ていると、先を睨んだ何かを感じることがあります。昔私が三洋物産の直営店を見て、その商品開発力の高さに驚愕して将来性を感じたように、今のダイイチには将来性を感じるのです。今は三洋、サミー、サンセイの時代かも知れませんがそのうち彼らの時代が来るでしょう。商品開発能力は、パチンコメーカーにとっての生命線。そしてそれを支えるのは直営店の在り方なのです。ダイイチは4店舗ある直営店を整理して、畑江通と昭和橋だけにしてもらいたいですね。残った2店舗に財源と開発スタッフのエネルギーを集結して、自社商品だけで営業をしていただきたいです。
1986年~1995年頃の話は、今までに何度も触れているので申し訳ないと思ったのですが、今回言いたかった内容をお伝えするためには、この10年間の出来事は避けて通れないと思ったのでこうなりました。パチンコの黄金期を知ってる人間が少なくなりました。この時代に学ぶことは多いけれど、この時代と同じことをやれることは少ないです。パチンコが活況を呈するには遊技機の商品開発が極めて重要だし、今後業界の天下を目指すのなら自前の直営店を持つくらいのことはやって頂きたいし、その店の稼働を自社商品で全て埋め尽くすくらいの商品開発力がなければ頂点には立てないでしょう。
自前の店舗を自社商品だけで賄うことはできるはずですよね。
どこかの企業が天辺を目指して頑張って頂きたいです。
何となくですけど、これに一番近いのがダイイチのような気がします。
最近、そう思うことが多くなりました。年寄りのボヤキです。