自分を育ててくれた4選

コロナ休業に関するニュースです

5月1日現在
全店舗数9074
営業中83
休業又閉店8991
99.1%が非稼働
東京、大阪、愛知は営業店舗がゼロになりました。


家にいてやることがないから久しぶりに国会答弁を見てました。蓮舫さん頭良いなあと思ってずっと聞いてたけどこの国は本当に深刻な状況になってきました。緊急事態宣言は、5月6日に解除されず1か月の延長ということで更なる経済の打撃。百貨店は売上8割ダウン。学生さんと旅行会社は泣いてる。最も打撃を受けたのは風俗関係で、ソープランドはもう駄目だろう。筆おろしとか性欲の処理というのは人間社会には必要なものだと思っていたけれど、ここは真っ先に倒産の嵐が吹き荒れると思うし既に壊滅に近い状態。ヤミ営業がはびこってるらしいけど行こうと思う客は激減。欲求のはけ口を用意することは社会の秩序を安定させるには重要なことだと思う。そういう場所がなくなったら犯罪が増えるから。コロナの終息を待ってたら日本という国が潰れる。自粛店舗はもう待たなくても良いのではないだろうか。ある時期が来たら決断する時が迫っている。このまま何か月も店舗を閉めていると本当に倒産という言葉が現実のものになってくる。どうするニッポン?このまま怠惰に自粛延長を続けるつもりか?自粛延長の先にあるものが「倒産」だったとしてもおとなしくしてろってのが正解なのか?最近は本当にこのようなことを考えることが多くなったが、有識者の初期判断が国を左右するというのは良く分かった。

 

本来なら電車を封鎖してロックダウンすべきだった。

少なくとも首都圏の電車は止めるべきだった。でもそれをやらなかった。

 

まあ自分がこのようなことを書ける立場ではありませんがね。営業店舗が残り少なくなっても、僅かな可能性を求めて悪あがきをした私にも刃が向けられるだろうしぶっ叩かれても仕方ない。そんな人間が書くブログなので冒頭の件は説得力はありません。然しながら分からないんですよね。自分の行動がお金の為なのか、勝利に対する執着なのか。昔から逆風が強いほど、その困難を乗り越えて何とかできないかと考える。勝ち難くなればなるほど突破してやろうという気持ちが、炎の如く燃え盛るのは昔からちっとも変わっていない。パチ屋にほんのちょっとでも隙があったらそこをつついて、風穴を開けたろかと思う。ほんのちっちゃな風穴でも開いたらそれをこじ開けて、ビリビリビリって引き裂いて次の次元に突き進もうとする。生まれ持ったバクチ打ちの精神は死ぬまで治らんのと違うのかって思うけど、人に迷惑かけたらアカンやないかっていう気持ちよりも、この困難な状況を何が何でも撃破するという気持ちの方が勝る。でもそれを正直にお伝えすることが私に課せられた使命なのだと思う。最後まで営業していたパチンコホールには2通りあった。この機会を良いことに殺人営業をしてぶっこ抜きする店舗とあくまでも普段通りの営業で客をもてなす店舗。後者がある限りは戦おうと思っていたがそれがなくなった時点で終了。殺人営業を続けていた店舗に興味はない。

 

退屈な時期だからこそ皆様の暇つぶしに一役買おうかなと思って、パチンコビレッジへの投稿を検討しました。毎週土曜日に投稿してきたのでという感じです。長期連休を家で過ごすことに飽き飽きしていると思うので、本日は意図的に長分を投稿することにいたしました。私の記事は1回読んだくらいではなかなか本丸御殿まではたどり着けないと思うので、お暇なときに何度か読み返してくださいませ。本日は自分を育ててくれたと感じた遊技機を振り返ります。その中から4台に的を絞って書いてみたいと思います。自分みたいにパチンコの遊技歴が30年を超えてしまうとどっかでこの手の話題になるもので、その中から転換期となった機械を挙げろと言われると何故か4台くらいに絞られる。これはどんな人に尋ねても概ねそのような答えが返ってくるのではないでしょうか。ここでの4台は思い出に残るという点では皆同じかもしれませんが、沢山勝ったとかそういうのじゃなくて人生を変えるキッカケになったとか、パチンコのやり方を変えるキッカケになったという趣旨で選ぶわけです。そしてこの手の話をすると、大抵はそのうちの半分くらいが初期段階。つまりパチンコをやり始めて間もない頃のお話が中心になってくるというのも皆同じなのではないでしょうか。


4つ挙げるということですから起承転結風に書いてみたいと思います。

 

高松駅

 

上記画像は高松駅周辺の地図ですが、北が上ということでご理解願います。高松駅の隣に高松築港駅という名があるとおり、このすぐ上(北方)には瀬戸内海が広がっています。築港駅から南下する国道11号線は大幹線であり、これが中央通です。中央通を南に下って番町交差点を西に行くと私の母校である香川大学に行き当たります。高松駅からは歩いて20分程度の距離です。高松築港駅からは片原町駅⇒瓦町駅という路線が見えますが、これは琴平電鉄という路線列車。当時はチンチン電車と呼ばれていました。瓦町駅のすぐ西にトキワという文字が見えます。

 

玉藻城

 

高松築港駅には昔松平藩主が住んでいたお城がありまして、その城跡になっているのが玉藻公園です。
<一合まいた>

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玉藻のお城に瀬戸の風♪  
丸亀城にはうちわ風♪  
浜は坂出潮風よ♪  
わーたしゃ あなたに 恋の風♪  


毎年お盆の時期には一合まいたのテーマソングに乗って、浴衣を来た踊り子さんが高松駅からこの中央通りを南へ南へと下って参ります。高松踊りですね。中央通りというのは高松市民にとってはシンボルと言っていいくらいの太い幹ですね。 

 

三越

 

 中央通を南に下っていきましてちょいと東に渡ると高松三越に行き当たります。大学時代に私がよくバイトした百貨店であります。何のバイトをやってたかというと夏はビアガーデンのウェイター。冬は年賀状作りに一世を風靡した理想科学、プリントゴッコの店頭販売。そしてこの三越の真ん前にあったのが私が生まれて初めてバイトを経験したマクドナルドがありました。思いでの三越を更に南下すると、片原町から丸亀町までのルートには天井にはアーケードがありまして、この辺一体は高松市内の象徴である商店街が立ち並ぶのです(今もアーケードがあるのかどうかは存じません)。

 

トキワホール

 

兵庫町
片原町
丸亀町
南新町
瓦町

 

高松中央通の東に位置する区画には、四方八方に延々と続く商店街があり、全てアーケード付のこの場所は、四国きっての商店街として賑わいました。その商店街の最南端に瓦町があり、画像に見える瓦町駅のすぐそばまでアーケードがありました。南新町と瓦町の瀬戸際辺りにタマヤ南新町店があってそこからほどない場所にパチンコ店トキワホール。ここが私の人生の出発点でした。

 

人生のアナザースカイ⇒トキワホール

 

銀星宿舎

 

パチンコカルテット


上記画像の172線沿いに見えるのが銀星第3ビルという文字。ここは昔銀星宿舎という名前でしたけど、ここが私が大学4年間暮らした場所で御座います。私はこの宿舎の1階に住んでましたけど、同じ宿舎内に師匠の広瀬君をはじめ、平松、高杉というパチンコの上手い連中が4人も居合わせたということで、この4人はじきに香川大学きってのパチンコカルテットを形成することになるのです。広瀬君がこの宿舎に居なければ私の人生はさぞかし詰まらないものになっただろうなと思うし、広瀬、平松、高杉というパチンコの猛者に囲まれて、私のパチンコ技量は飛躍的に上達していくのでした。当時の香川大学には、同じようにパチンコで腕を鳴らしたグループが多数存在しましたが、その中でも我がパチンコカルテットは名にし負う達人の集まり。銀星の4人組にはと恐れられる存在なのでした。未だにネット上の地図で銀星(ギンセイ)の名を見ることができるとは思いませんでしたが、名前が残っていてかなり嬉しいです。すぐ東側には日本を代表する景勝地栗林公園があってその横には中央通が走っています。銀星宿舎は山の中腹にありここから坂道を下って街中に出るわけですが、地図上の172線の坂道を下って北に向かい、平地になって2つ目の信号を左に曲がれば香川大学です。

 

 

香川大学

 

銀星宿舎前の坂道を自転車で転げ落ちるように北上して2つ目の信号。地図では亀早小がある交差点を左に曲がると香川大学。右に曲がるとトキワホールに向かいます。この頃の私は何故かここまでくると、信号を左には曲がらずに右に曲がってばっかし。大学にいくよりもトキワホールにいくことの方が多かった私にとってこの交差点はまさに人生の分岐点。ここを人生の起とします。

最初の出会いはボクシング。今までに何度も書いてきたのでかなり端折りますけど、私にパチンコを教えてくれたのがボクシングだし、ハネ物の攻略、権利物の飛び込みを理解するなどの基礎となった遊技機です。技術介入がなければパチンコはつまらないし、容易には勝てないことを教えてくれた機械。トキワホールまではいつも自転車で通っていました。香川大学までは坂道下りてすぐでしたから、自転車で5分も走れば到着したと思うけど、トキワホールまでは20分くらいはかかりましたかね。商店街を突っ切って店の駐輪場にチャリンコを止めると勝負開始ですが、この頃は10時開店の時代でしたけど私は朝一から行くことは滅多になくて大抵は昼イチからの勝負。ハネ物を止めるのに2時間とかからなかったので昼からでも十分勝てました。この店でボクシング打ってて印象深いのは、昼ご飯を食べに外に出たときのこと。当時は食事休憩札というものがなく、飯は行くなら勝手に行けよというのが流儀だったので沢山出玉があるときは絶対に行かないんですが、この日は小箱ひとつに満タンの玉を詰め込んでいたのです。この程度なら大丈夫っしょと思って内心はやや不安だったものの外に出て飯食ってたんですが、帰ってくると俺の台にさっきまであった小箱がない。アレっと台間違えたかなというほど客はいなくてどう見てもさっきまで私が打ってた台の上下の皿に玉が残ってる。けど満タンに詰め込んだドル箱がない。1500個くらいの玉はあったはずですが、結論から言うと「やられた!」でした。


玉を盗まれたのです。当時は防犯カメラなどある訳もなく泣き寝入りです。玉を取られた方が悪いで済まされた時代なので、これ以降は玉があるときは絶対に飯食いに行かんとこと心に強く刻んで遊技を再開したのですが、この日の結果がどうだったかは覚えとらんのです。もしかしたらこの日はマイナスで帰ったかもしれんなあと思ってるから、ボクシングでの成績は99勝1敗だったと書いてきました。それほどまでにこの機械では連戦連勝。百戦錬磨のヒクソングレイシー並みの勝率なのでした。

 

ハネ物での勝ち方を覚えた自分は、すっかりパチンコカルテットの一角を成し遂げていると天狗になっているときボクシングの撤去というニュースが飛び込んできました。台がなくなるなんてこと知らんかったから、ボクシングはいつまででも続くと思い込んでいたもんやさかいショックは計り知れなかったですね。ボクシングがなくなったらパチンコで勝たれへんがなという危機感に陥った頃デジパチブームが到来します。もっと前からサンキョーの初代フィーバーってのは出てたんですけど自分は見向きもせずボクシング一筋だったからデジパチにはまるで縁はなかったです。この時代を彩ったのは平和のブラボーと三共のタコフィーバー。ここで平和のブラボーに朝イチモーニングが発覚したのですが、これを発見したのは高杉晋作(いや晋作じゃないけど)。高杉、平松が見つけた朝イチモーニングの事実を知らされたのは発覚してかなり時が過ぎてからの事。私らはカルテットといったって徒党を組んでいるわけじゃなし、個人個人の遊技なので彼らにしてみれば見つけてしばらくは自分たちだけの秘密にしておきたかったという意識が働いて、こっちに情報が流れてきたのは既に旬を過ぎた時期。ということでブラボーの朝イチモーニングではそんなに儲かんなかったですね。彼らが発見した時既にこの店に出入りしていたヤクザさん達もそれに気づいており、5~6人いたヤクザさんと学生とのモーニング台争奪戦争は熾烈を極めまして、高杉、平松とてそれほど旨味はなかったと後述しております。

 


この頃の自分はデジパチが大の苦手でカルテットの中で私一人だけ蚊帳の外。ハネ物だけで勝ってきた人間がデジパチで勝利するにはちょいと時間がかかるようでして、4人の中でも特にボクシングを愛し、ボクシングのスペシャリストとしてやってきた私にとってデジパチは厄介な存在でした。右打ち、回転体止め打ち、役物のクセ看破。技術介入が盛り沢山だったハネ物の戦いに慣れていた自分はデジパチでは勝ち難いと思ってたし、大当たりしなければ玉が出てこないので技術介入余地は少なかったでしょう。釘調整はヘソしか見れませんでしたが、台毎の個体差はあまり感じなかったし、実際釘調整はやってなかったように思います。真ん中のドラムが7,7,7と揃って上のデジタルガン見ですが、ここでは1とか3とか4ばっかり続くともう嫌んなってきて止めちゃうという日が続きます。当時はボーダーラインという概念がなく、大当たり確率も分からない。当たれば1万円もらえるので1万円までに止めるか続けるかの判断という超どんぶり勘定のパチンコだったので負けるっちゃ負ける訳ですが、それでも平松、高杉、広瀬という面々はデジパチを完全に攻略してたので私一人勝てないのかと悩んでいた時期でもありました。

 

大学2年のお盆休み。他のメンバーはそれぞれ田舎に帰ります。広瀬君は大分に帰省。高杉、平松さんは岡山に帰省してしまったので私一人がトキワホールのタコフィーバーの島で居残り訓練開始です。毎日フィーバーの島にいると、ヤクザさんの一人がほぼ毎日中カド辺りの決まった台に座ることに気付きます。何故いつもそこにいるかは謎ですが、大体決まった場所に座ります。とある日の事不思議な光景を目にします。カドから2番目を打ってた人がちっちゃなドル箱に玉を入れてるのです。デジパチというのは大当たりするまで、お金を使いまくって当たれば一気に挽回するという仕組みだと思っていたけれど、この人は何故玉を持ってるのだろうか?注意深く観察していると、この台はブッチギリ回ってるのですね。それで金を使わないどころかどんどん増えてるんやということに気付いた私は、ここで化学反応でした。

 

この台を打って当たるまで遊技すれば負けることはないんと違うんか?

目からうろこが落ちた瞬間でしたね。カドから2番目の台が大当たりすると、私はすぐその人の後ろにつきました。大当たりが終了すると私は店員を呼んで、この後私が打つからと予約を入れました。実際に遊技し始めると予想通りの回りの良さにびっくりで、さっきまでと同様に玉が増えてきます。一箱出ては飲まれて出ては飲まれての繰り返しですが、確実にジワジワと玉は増えていきました。結局私はこの台に座るまで、ヘソの大きさには大して個大差ないのだから回転率もまた個大差ないだろうと考えていたことが間違いだったことに気付きました。釘の形は同じでも台毎に回転率が全然違ったのです。今まで勝てなかったのは回らない台に固執していたからだ。

 

否、回る台と回らない台との区別ができなかったからだ。

結局玉が増えてくるほど回転率が良かったのはこの台だけですが、驚いたことにこの店はこの台の釘を締めませんでした。翌日からはその日の最初に遊技するのはこの台からとなりました。1回交換で打ち止め終了の時代ですから、朝から狙う必要はなく店に入るとまずこの台のそばにいて大当たりするまでじっと待ちます。大当たりすると終了後に店員を呼んでこの台打つからねと予約します。毎日これだけの手順で1万円勝ちからのアドバンテージスタートです。正直楽勝でした。このトキワというパチンコホールは良心の塊みたいなお店でしたが、それよりも何か暴力団と裏でつながっていて、パチンコで遊技することによる資金調達を黙認する代わりに何某かの縄張り利権を貰っていたのではないでしょうか。ハネ物に関しては釘調整はやってましたし、私でもそれは分かりましたがデジパチに関しては全く釘は触ってなかったように思います。回る台は毎日回りっぱなし。回らん台は毎日クソ回らん中で営業を行うことができたのは1回交換、打ち止め終了制だから。打ち止めさせた台はその日の内に座ることができず、それ以降は他の台で遊技することになるので回る台を一人の人間が占領できなかったということで、そのような楽園が生まれたのでしょう。因みに玉が増えるような台のスタートは7.7くらいでその次に良く回ったのは1000円で1時間くらい遊べる台ですね。この程度の台なら割と探せたのでこの時代は勝つことに苦労しなかったし、当時のデジパチ大当たり確率は1/500くらいだと思うけど殆ど5時間以内には当たるので、回る台を打てばほぼ5000円以内には当たる時代でした。

スタート7.7⇒玉が増えてくる(通常ベース100超え)    
スタート7.3⇒1000円で360回転回る(1000円で1時間)    
スタート6.5⇒1000円で100回転回る(大体このくらいを目指す)    
スタート5.6⇒1000円で50回転回る(ボーダーライン)    

当時の営業はスタートが5.2~5.6くらいの台が多かったと思います。スタート6.5でも平均すると5000円で当たって1万円貰える勘定ですから、かなり甘いけれど2倍以上嵌れば負けですから6.5では微妙な感じです。絶対に勝てると確信できたのはスタートが7.3以上の時で、このような台はこの店に限らず結構落ちてましたね。基本的な立ち回りとしては最初にカド2番目の台を打ってまず1万円獲得して、それ以降は7.3回る台に固執してその台が打ち止め終了になるのを待つか、それとも6.5くらいの台で果敢に攻めるかという感じなのですが毎日同じ釘調整なので回る台と回らん台は自分の目で覚えていきました。この頃から①僅か3ミリの奇跡と②カド番は有利なのか?ということを何となく意識しながら打ってたわけですが、当時は物理的条件の違いは何にも分かってなくてただただ台番で回転率をアバウトに覚えていただけです。でもヘソ以外の要素、釘調整以外の条件でも回転率は随分と変わるのねってことだけは頭に刻みました。タコフィーバーの島に常駐していたことがのちの物理的研究につながっていくのです。

 

最初は負け続きだったデジパチとの戦い。然しながら大学2年のお盆休みでカドから2番目台の回転率に気付いたことで打撃開眼しました。デジパチは大当たりしなければ何にも出ないので、5000円くらい使ったら怖くなって止めてたのですが、回る台を見つけて当たるまでやり続ければ必ず勝てるんだということが分かりこれ以降は常勝軍団の仲間入りです。大学に行かない日は悉くトキワホールに入り浸り。やるたんびに1日に2万円くらいは勝ち続けていましたが、カドから2番目の回転率はその年の年末まで下落することがないという太っ腹営業。結局この店は大学1年と2年の2年間通いましたけど、ボクシングで50万円、タコフィーバーで200万円勝つということで瓦町のパチンコトキワホールは人生のアナザースカイとなったわけでございます。回る台を打ち続けていれば勝てるんだということを私に教えてくれたタコフィーバーはまさに起承転結の「承」に相応しい遊技機です。4選のうち半分までが大学1年と2年の出来事なので、やっぱり何事もやり始めという時期に運命的な出会いがありますね。

 

(起)ハネ物の勝ち方を教えてくれたボクシング。     
(承) デジパチの勝ち方を教えてくれたタコフィーバー。

 

転     

人生の転機となれば社会人になってからというのがセオリーでしょうね。社会人になった1年目はパチンコにはあまり執心していなくて、香川から愛知に出て来てこちらでの楽しい場所を探すということに躍起になった時期。その年の春先にはハイクックレディに一目惚れをしたものですから、私の人生で唯一パチンコよりも優先したいものがあったという時期。この年はパチンコもやってはいましたが、それよりも可愛いお嬢さんと楽しい時間を過ごすことに夢中になっていましたので本格的にパチンコに没頭したのは2年目からですね。その時期にパチンコの転換期が訪れるのですが、私を育ててくれたという点ではこの期間中に発売された台はそこまでのインパクトはありませんでした。ブッチギリ勝たせて貰った機械は今までにも何度か書いてきましたけれど、私を育ててくれたのはもうちょっと後になってから。その機械が登場するのは1995年の事でした。

 

私を育ててくれた起承転結の転に当たるのは


CR黄門ちゃま2でございます。

大学時代のボクシング=ヒクソングレイシーを除外しますと、大体勝率はずっと7割5分をキープしていたと思います。月間では9勝3敗みたいな勝率で右肩上がりに勝ち進んできた私は、パチンコで負けるってことは考えたことがありませんでした。パチンコを始めた初年度からこの年まで、社会人の1年目以外は毎年100万円以上は勝ってきたし、月間のマイナスは一度もありませんでした。そのわたくしに土を付けたのがCR黄門ちゃま2という機械でございます。


CR黄門ちゃま2
大当り確率1/395、T1Y2300個
確変1/3で突入しあと2回ループ
時短なし、単発1回交換。確変持ち玉遊技。

 

保留玉連チャン機の大当たり確率が1/220~1/240に慣れていた自分にとって、突然大当たり確率を1/400にするという事実は受け入れ難い内容でした。それでもCR時代を乗り切るために果敢にチャレンジしたのが黄門ちゃまだったと思いますが、目論見は木っ端みじんに砕かれて予想以上に手強い機械スペックに手を焼きました。常時30/K程度の台を打っていたと思いますが、これくらいの条件ではボロ負けにつぐボロ負け。この年の7月にとうとう自身初の月間マイナスを計上するという前代未聞の事態に陥り、常勝軍団の一人という意識は崩れ落ちました。若干プライドみたいなものもあったと思いますし、天狗になっていた時期でもありましたからこの時の落胆の色は今でも忘れることができません。結局1995年の7月は13万のマイナス、翌8月も12万のマイナスということでCR黄門ちゃま2を柱とする、確変2回ループタイプにはこっぴどく痛い目にあいまして2か月で25万円という大敗を記録するのです。困った私はついに1/400を封印し、この翌月からは1/330前後の台に的を絞って戦いに出ることを決意。CRサイコロン、CRコマ駒倶楽部、CRビッグパワフルに方針変更し、収支を取り戻したということは今までに書いてきた通りです。黄門ちゃま2から10年後に大ヤマト2が登場。黄門は1/400で深追いしなかったのに、ヤマトでは1/500なのに深追いしたのは何故だろうとみる向きもあるかと思いますが、この両機械を比べますと後者の方が圧倒的に安全度が高いからです。

 

大当り確率はヤマトの方が低いです。

 

黄門ちゃまの場合は何と言っても単発比率が66.6%もあったのにそれが1回交換というのがキツかった。これがもし無制限時代に出ていれば見方も変わったと思うけど単発当たるまでに平均13000円使って5000円の回収。だから単発で当たるたんびに8000円ずつ負けていくので確変で当たった時には既にかなりの投資金額なのです。確変率67%の台が6連チャン、7連チャン、8連チャンなんて全然珍しくないから、黄門では5連単、6連単、7連単も珍しくないわけです。確変大当り率が黄門は1/1200だったのに対してヤマトは1/680ということがこの両者の決定的な違いでしたね。しかもヤマトは時短100付きですから実質的な大当たり確率は黄門が1/395でヤマトが1/415なので大当りの確率はあまり変わらないけど、確変引ける確率が全然違うという点がヤマト打つべしとの理由です。黄門ちゃまの遊技データは全部は残ってないのですがそのうちの一部だけを掲載しておきます。

 

黄門1

 

黄門2

 

黄門3

 

どいつもこいつもろくな当たり方をしておりませんが、これが私と黄門ちゃまとのお付き合いで、単発が続いて投資金額が膨らんで負けか、朝一から躓いて負け。たまに確変は引くけれど大抵は3連チャンか4連チャンで終っている。1/3突入あと2回タイプは爆裂したと言われてるけれど、実際には私みたいに3連チャン、4連チャンばっかりで終ってる人もいる。5連チャン以上はなかなか来ないし、7連チャンてことになると滅多に経験できなかったので、言われてるよりは連チャンはし難かったですね。マルマン小牧⇒現キャッスル小牧店になる予定のお店。東宝プラザ江南は名桑線上のお店で今はなし。柳津一番は岐阜、モナミ一宮もパーラー金剛も今は存在しませんが、黄門ちゃまで一番負けたのは車道にあったパーラー金剛(今はヤマダ電機)というお店。こうしてみると大体30/Kの台を打ってたという感じですが、これくらいの回転率では話にならなかった。40~45ないと厳しいということで本当にこの台には泣かされました。   

 

ここまで書くと勘の良い方ならもうお分かりかと思います。   
   
   
CR黄門ちゃまが私に何を教えてくれたかというと   
   
   
危ない橋を絶対に渡らないということ。   
   


初代ウルトラセブン、初代花の慶次、初代牙狼

大当り確率が1/400時代の旧MAX機

初代北斗無双

MAX機と呼ばれるスペックで大ヒットした機種は数多ありますけど、私は一切遊技してこなかった。ガロウの金色や魔戒が勝ち易いと評価されてた時でも全く無視してきたし、北斗無双が勝ち易いということで北斗一筋の輩が多い中で私一人は蚊帳の外だった。どんなに世の中のマジョリティが評価する機械でも、私はそんなものには目もくれずただひたすらヘソキングの道を歩むという人生を送ってきた。石橋を叩いても渡らないパチンコを貫き通したのは全てはCR黄門ちゃま2で痛い目にあったから。右肩上がりに勝ち続けていた私の人生に初めて土を付けた黄門ちゃまは、私に危ない橋を渡るなと教えてくれた。

 

パチンコで負けるということを教えてくれた機械

そんなCR黄門ちゃま2は紛れもなく起承転結の「転」ですね。

起承転まで来れば、私がどういうパチンコ人生を歩いてきたかは概ね分かると思いますが、最後の結に何を持ってくるかが予想できた読者様はいないのではないでしょうか?1995年までに既に4選のうち3つまでが決まりました。あと1つの枠は何だと思いますか?1995年以降に私が固執した台は以下の通りです。

 

ビッグパワフル(SANKYO)
華観月(京楽)
牙王(ニューギン)
華王(京楽)
大ヤマト2(SANKYO)
華王美空ひばり(京楽)
アタックNO.1(京楽)
必殺仕事人Ⅲ(京楽)
エヴァンゲリオン3と5(ビスティ)
七人の侍(ビスティ)
地中海(三洋)
沖縄2(三洋)
沖縄3(三洋)
沖縄4(三洋)

各時代を彩った歴代の雄の中でも、とりわけ1つだけキラリと光るのがあるでしょう。

そう、それは地中海の事ですね。2009年まで海嫌いの私は、殊更海以外の遊技機での勝利にこだわっていたしその理由は何度か書いて来たと思います。七人の侍がなくなって以降の遊技機開発は、特図1の出玉を特図2に割り振る台ばかりとなり勝ち難い機械しか発売されないようになりました。パチンコメーカーの意地の悪さか、それともパチンコホールからの利益を取りやすい機械を求める声に応えたのか理由は良く分からないんですけど、クッソみたいな機械しか出なくなりました。2008年頃からその傾向は感じていたので、これからのパチンコをどうするかは自分の中で大きなウェイトを占めていたし、ヘソキングを続けてくれる海物語をやらねばならない時代が来るだろうなという意識は心のどっかであったと思うんです。それでも海モードの詰まらない音無美紀子様は、私には耐えられそうになくてこの時期でも嫌気してたのですが、地中海を打った時に化学反応。これはちと面白い。ステップアップは初代沖縄でもありましたけど、地中海ではそれに加えて擬似連というのがあり、こいつが意外に面白かった。バラケ目さえ入ればそれなりに期待できたし、バラケ目は並ぶ位置によって期待度が変わるということで完全に今までの海とは違う何かを感じた私はその日から地中海に没頭しました。

低確抽選78685
単発261
確変338
確変率56.4%
大当り確率1/301.5
収支540880円
平均スタート回数6.93  

 

どうってことない数字ですが、直前の初代沖縄では嵌りまくっていたので、これでもまだ勝ってる方だしスペックもまともだったので沖縄よりかは戦いやすい機械でした。初めて海物語で勝ったと言える機械だし、これをきっかけとしてこれからは海物語でもやれそうだということを実感。今でこそ海専を自負する土日パチンカーで、この10年くらいは非常に海依存度が高い遊技スタイルですが、その走りとなったのが地中海。従って本機は私に海物語を打つことを教えてくれた貴重な機械。育ててくれた4選の「結」に相応しい遊技機なのです。  

 

(起)ハネ物の勝ち方を教えてくれたボクシング  
(承) デジパチの勝ち方を教えてくれたタコフィーバー  
(転)パチンコで負けることを教えてくれた黄門ちゃま2  
(結)海物語を打つことを教えてくれた地中海  

 

地中海で海に自信を持てた自分は、これ以降沖縄2、沖縄3、沖縄4とどっぷりとつかっていくことになるのですがこの3機種で70万回転というロングラン稼働で得たものはIDパチンコの追求ではなかったかと思います。もちろん沖縄の3シリーズで530万という金を手にしたことも海を打って来て良かったとなるのですが、それ以上に大きかったのはIDパチンコを研究できたことでした。25年前からIDパチンコを考えていたというのは事実ですが、実際に細かいレベルまで研究できたのは海シリーズが中心。なので殊更地中海が私に与えた影響は大きいです。     

 

(1)パチンコの基礎⇒正村竹一     
(2)デジパチの革命⇒石橋達也     
(3)パチプロの開祖⇒田山幸憲     
(4)パチプロの伝説⇒池上蓮     
(5)パチプロの模範⇒安田一彦     
(6)パチンコの神様⇒谷村ひとし     

 

パチンコ業界に多大な影響を与えたのはこの6人ではないかと思っています。正村竹一さんと谷村ひとしさんを同列に並べるのは疑問に思う人たちもいるでしょうが、私は影響を与えたという点では谷村さんの功績は無視できないと思いますね。正村竹一さんは無論マサムラゲージの開発者でありますし、この人がいなければパチンコの発展はありませんでした。正村さんが遊技機として革命的なゲージ開発を行ったにもかかわらず、皆が平等に使えるようにということで特許申請しなかったことは今でも語り継がれているお話です。     

 

パチプロという名を世に知らしめたのは田山幸憲ですが、同時期にデジパチの回転数理論と期待値至上主義を世の中に知らしめたのは石橋達也。今のパチプロは皆石橋達也が提唱した「イシバシ理論」に基づいていますから彼の功績は多大ですね。     

 

必勝ガイドは田山幸憲で、攻略マガジンが池上蓮ということで、この二人はパチプロとしての2大スターなのですが、ハネ物が得意だったのが田山でデジパチが得意だったのが池上だったでしょうか。田山の場合は、オカルトチックな発想が満載だったのですが、それも田山理論として世の中に受け入れられるところが彼の人間性であり持ち味。田山の持つ「味」はその後のパチンコライターとかパチプロが書いた文章では再現できないような独特の柔らかさがあります。現在でもパチンコで勝ってる人たちの多くが田山チルドレンということで影響力はありましたね。池上は伝説のパチプロを地で行くような孤高の人生であり、文章は田山のような味はなかったけれど、彼が経験したパチンコの実践記は凄まじいの一言。デジパチに限定した実践記録では、彼のお話が一番面白かったですし、私が日頃思っている面白い実践記を書きたいという願望は彼のような実践記録を目指すということなのでしょう。田山も池上も業界の2大看板となるパチンコ雑誌の名物コーナーで日記を掲載してましたからどちらも影響力は多大だったと思います。

 


安田プロは私から見るとパチプロのお手本のような人。人柄も温厚だし、礼儀とか忠節ということを総合して考えるとパチンコという世界には今まであまりいなかったタイプですね。パチンコ必勝ガイドで長きに渡って連載を続けていると、もっと天狗になってもよさそうなものだけど彼の場合はそういうのがないんだよな。パチンコの腕前、文章、人柄を総合すると今生きてるパチプロの中では最も影響力が大きいと思うのでこの6人の中に加えました。然しながら、安田さんと谷村さんが一緒に並んでるというのに最も腹を立てているのも彼だと思います。正攻法VSけたぐりって感じの勝負だと人は評価するだろうけど、正攻法もけたぐりもどっちもオカルトなんですよ本当は。

 


谷村ひとしさんのことを悪く言う人が多いけど、彼の功績とか影響力は無視できないと思う。あの方はでたらめなことばっかり書いて世のひんしゅくを買ってると思ってる人が多いけれど実はそうでもないと思う。彼は自宅にパチンコの島設備を作って新台を買って来ては、それを遊技して映像に記録している。膨大なサンプルの中から法則性を見出してそれを実践の時に役に立てようとしてるのだけど、その姿勢は賞賛に値すると思う。彼のロジックが正しいか正しくないかは別として努力は素晴らしいので私はそういう人がいても全然構わないと思う。以前にもここで書いたとおり、人間の脳はアナログでできている。だから人間の考えることは何某かのオカルトチックな要素を含んでおり、それは安田さんでも谷村さんでも大差ないと思う。昆虫と人間の大脳が同じとは思わないけれど、人間の大脳は他の生命体よりもかなり優れており、人間同士の比較ではそれほど大差ないのではなかろうか?彼が主張してきた内容は我々凡人には理解しがたいものを含んでおり、谷村さんにしか分からない言語が多いけれど結果としては勝ちまくっており、その金額は時給に換算すると多分安田さんよりも遥かに高い水準だと思う。だから彼はパチンコの神様なのである。

 

努力する方向が異なるだけのことだ。

 

どちらが正解でどちらが不正解なのかはこの際問題ではない。ただし谷村理論に落とし穴があるとすれば、自分が遊技した機械でなければ法則性を見出せないので、違う機械が出れば通用しないこと。彼が生きてるうちは良いが彼がいなくなったら誰もその法則性を訴求できる人が現れないということ。この点が石橋理論とは大きく異なる。石橋理論は普遍的な発明なので、後世までそれを学ぶ人が後を絶たないだろうし、現実に今いるパチプロは全て石橋理論の元で成り立っている。谷村理論は普遍的な発明ではないので彼一代で終わりということが問題ですが、彼が世の中に与えたインパクトとか影響力は多大だったのでこの6人を同列で並べています。

 

ただひたすら勝ちを目指して戦っている。

昔パチンコビレッジのライター仲間にこのように形容されたことがありました。この言葉が全て間違ってるとは思いませんが、所詮世の中ってのはそういう風に見てるんだと思ったし残念な気持ちになりました。7年間も必死になって書いてきたけれど、未だに私のことを誤解されてる人が多いので今日は良い機会と思って詳しく説明します。私は既にハネ物とか一発台系のアナログ機は捨てております。その心は釘師不在の今のパチ屋に釘調整を求めるのは酷であり、尚且つ持ち玉無制限というルールではハネや一発台を魅せる営業の仕方は不可能なのでアナログはやらないと申して参りました。然し私がアナログをやらない理由はそれだけではありません。沖縄、大海、冬ソナしか打ってこなかった人間だから、アナログは好みではないとか苦手と思っている読者様もおられるようですが、実は私は好き嫌いで遊技する機械を決めている訳ではない。演出が楽しい、勝ち易い、玉の動きが楽しいということも重要なんでしょうけどそれ以上に私が優先するのはIDパチンコの対象になるかどうかですね。天下一閃や天龍打ってもIDパチンコに関係ないでしょ。だからアナログやらないんですよ。ボクシング並みに技術介入あれば打つけどそれ以外なら全部スルー。

 

ただひたすらIDパチンコの完成を目指して戦っている。

 

確率と統計を結びつける考え方を嫌う人は多いし、実際のところ確率は独立事象だからという言い分は良く分かります。IDパチンコなどというものを提唱していると、大抵はバカにされるし白い目で見られるのがオチ。でも新しい技術とか発明や発見は、そこに至るまでのプロセスの段階ではバカにされることが多いのです。ノーベル賞をとった人達の話を聞いていると、研究段階ではバカにされ続けてきたと言う。「そんなことできるはずがない」とか「キチガイ?気が触れたか?」と罵られながらやっていた。人にバカにされながらも、ただひたすら己の信念を貫いて努力を積み重ねてきたからこそ花が咲く。これがノーベル賞なんです。パチンコもおんなじ。誰もがやれんことにチャレンジするから価値があるのと違うのか?できるできないは置いといて、私は25年前からこの道に進むと決めて以来心はひとつである。IDパチンコの研究はどこまででも続くと思う。多分死ぬまでそれを追い続けると思うけど、IDパチンコを研究するのに最も都合が良い機械が海物語なのです。だからボクは海を打ち続けているし、そうさせてくれた地中海を起承転結の結に持ってきた。

 

だからボクはパチンコを金儲けの道具とみているのではない。     
ボクにとってパチンコは研究材料である。     
そしてパチンコビレッジは研究発表の場である。     

 

理論武装して実践報告。また理論武装して実践報告。この繰り返しでしたけど、今までボクの記事に真剣にお付き合い下さった方ならば既に相当なパチ力を身に着けてるはず。常々養分さんが僕の記事の屋台骨を支えていると書いてきたけれど、彼らは既に養分を脱出してると思う。美容室の兄ちゃんが負け組から勝ち組へと生まれ変われたのは何故か。人は生まれ変われるし現実に彼と同じ道をたどってきた方は多いのではないだろうか。     


(1)親指ゲージ
(2)僅か3ミリの奇跡
(3)カド番は有利なのか?
(4)テツ&トモ
(5)板奥と板の違い※
(6)ストロークの鬼※

(5),(6)は現在進行形なのでまだ記事にできていないけど、(1)から(6)のような物理現象の理解が進めば、パチンコを理解することにつながるし勝利の方程式を手に入れることも可能ではないかと考える。パチプロは散々養分をこき下ろし、バカにしてきたけれどそのような言葉の上下関係を見るのは辛かった。パチンコで勝ってる事がそんなに偉いのか。そんな人たちに一石を投じるために私は必死になって記事を書いて来たのかもしれない。養分が私の記事を読み続けることで力をつけて頂きたい。そしていつの日か養分がパチプロに勝つ時代が来るだろう。これからも皆がパチンコで感じている摩訶不思議な現象を物理的に検証し、論理的に明らかにしていきたい。如何せん私自身に未熟なところがあるので、それを一気に公開するのは無理だけど、少しづつ記事にしていきたい。謎解きは私の仕事。楽しみにまっとりゃあせ。

 

面白いパチンコの記事とか面白いパチンコの実践記を書くにはどうしたらよいかをずーっと考えておりました。そこでふと思いついたのは読み手が書き手のことを十分に理解していなければそれは困難なのではないかということでした。作者のことを理解できていなければ、読んでも腑に落ちないと思う事がいっぱい出てきます。すると面白くない、難癖をつけるにつながっていきます。ところが作者の意図を十分に理解していれば、今まで書いてきたことも大抵は腑に落ちるはずです。要するに自分の今までの説明が足りないからつまらない文章になってしまうと考えたので、今日は私がどんな人間かを理解して頂きたくて記事を書きました。これからもどうぞよろしくです。

 

IDパチンコの代名詞はゴーニィだと言われるようになりたい。

これからもずっとIDパチンコの事だけを考えながら生きて行くと思います。

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