惜別の情
去年のお盆は久しぶりに田舎に帰省しましたが、帰ってみてあらためて実家の良さを確認し、偶には母に会いに行かねばとの思いを強くしましたので、2024年の年末も帰省することにしました。夏は金刀比羅宮にお参りするのは無理なので断念しましたけど、今回は冬なので是非とも琴平まで行きたいと思います。
香川県の琴平町(ことひら)⇒金刀比羅宮があります。
金刀比羅宮の発音をもじって琴平町と名付けたのかどうかは分かりませんが、私は大昔からそう思ってました。金毘羅とはインドの言葉ですが、香川のこんぴらは金刀比羅宮(ことひらぐう)と書くのが正解です。金刀比羅参りが目的なので今回は車で帰ります。新幹線経由で田舎まで帰ると、名古屋駅から端岡駅までの料金は13040円なのですが、盆と正月は400円UPですから13440円が片道切符です。
往復だと26280円ですかね。これに地下鉄540円を足すと27000円くらい。
これが車だといくらになるのか?
今回行きは氷結を恐れて新名神を使いましたが、結論から言うとノーマルタイヤでもOK牧場で次からは行きも帰りも名阪国道を使おうかと思います。名阪国道経由では、なんと有料道路通行料金は5860円でした。
走行距離が385kmで燃費が24km/ℓ
という事はガソリンが16Lなので@160円×16で2560円。有料道路が5860円ということで
片道8420円でした。
車だと⇒往復16840円
電車だと⇒往復26820円
ピッタリ1万円も安くなるんですねえ。
これでは断然車の方がお得なので、次からは車での帰省にしようと思います。1万円の差はデカイ。となるとポチ袋に長男の孫と3男の孫2人にお小遣いを上げても大丈夫かな?会うか会わんかは分らんけどポチ袋3つ持って帰省しようかと考えております。因みにそのような日本だけの悪しき習慣は嫌いなので、帰省した時は親戚にはできるだけ会わないようにしとりますがね。
ただ片道8400円で行けるとは思ってなかった。これは
(1)ETC割引
(2)軽自動車割引
(3)深夜割引
の3つが起因してますので、昔なら考えられなかったこと。それに昔は瀬戸大橋一択やったから瀬戸大橋通行で6000円のところが、今回の明石大橋では2500円になっとるのでその辺がだいぶ大きいですね。自分が車で帰省してたのは20代の頃だけど、当時なら片道12000円くらいは有料道路に使っていたと思います。30年の時を経て時代は変わりましたね。
ただ当時から明石大橋はあったので、自分がそれに気付かなかっただけ。もっと早くに明石大橋経由で帰っておれば。ETCを搭載しておればと思いますが、何事も決めつけるのはダメですねえ。渋滞を避けて深夜走行になりますけど、朝の出発となれば神戸、大阪での大渋滞に巻き込まれるので早くても10時間はかかりますから、今回のように日付が分った頃家を出るとどっこも渋滞してなくてノンストップ。385kmを6時間という事は平均時速65kmですから全くストレスは感じませんね。これからも深夜に出て朝方目的地に着くということでやっていきたいですね。
今回の旅は12月30日の夜7時には布団にもぐりこんで仮眠。11時には目が覚めたのでちょっと早いけど12時ピッタリに家を出ます。こういうとき筆者は必ず
12時だとか
1時だとか
2時だとか
ピッタリの時刻を見計らって出ることにしています。そうすると走行距離と所要時間の関係から、平均速度が計算しやすいので何かと都合が良い。何でも私は計算する癖が染みついていて、走っている時でも常に今時速何キロで走ってるという事を計算しています。
60kmの道のりを60分で通過すると平均時速は60km/hです。
距離と分の数が一致する時60km/hになるので
30kmを15分で通過すると2×60で120km/h
30kmを20分で通過すると1.5×60で90km/h
30kmを30分で通過すると1×60で60km/h
30kmを40分で通過すると0.75×60で45km/h
30kmを50分で通過すると0.6×60で36km/h
30kmを60分で通過すると0.5×60で30km/h
走ってるときはずっとこのような計算をしながらですね。何でも計算する癖が抜けません。
淡路島SAについたとき290km走っていたけど11.96Lのガソリンを入れたから24くらいの燃費と判断しました。
走行距離と燃費が分れば必要なガソリン代が計算できます。今回名阪国道経由では385kmでしたので必要なガソリン量は16Lだから1回の満タンで愛知から香川の実家まで帰ることができるってことも判明しました。これで途中でバカ高いガソリンを補給しなくても大丈夫ですね。何事も計算です。
12月31日。
日付が変わった瞬間車を走らせて香川に向かいます。誰もいない名四国道を突っ走ると川越辺りで、大きなトラックが急に左車線から右車線に変更してきたので、一瞬だけ車間距離が詰まるって思う間もなく、バギッていう音がして唖然。これはやったんじゃないかなって思って窓ガラスをつぶさに観察すると右下に大きな傷。あーあやっちまったよ飛石によるガラスの破損ですね。コンビニに車を止めて明るいところで見ると紛れもなく破損していました。まだ30kmくらいしか走ってないのにテンションがた落ち。もうイヤンなっちゃうよ。この先まだ400kmも走るんだよ。
四日市に突入してコンビナートを過ぎると浜公園がありまして、23号線を左におりて右折します。菰野に向かう道中ですが、途中で四日市東ICに出くわすので、東名阪自動車道にのり亀山を目指します。亀山からは新名神ですね。延々と新名神を走ってると途中で京滋自動車道に変わりまして久御山JCT。八幡、京田辺方面に舵を切り枚方、寝屋川を経て門真JCTに着きます。今までならここで阪神高速3号線に向かうんですが、今回の旅では阪神高速5号線に乗ってみたいと思ってたんで松原まで行こうと思ってました。ところが何故かナビが奈良方面。左方向を指示するんでアレっと思う。何で左方向なの?って思いながらも久しぶりの阪神高速なんでナビが間違えとるという自信がない。東大阪JCTでこともあろうに阪神高速13号線に乗ってしまい奈良方面に向かったが、進行方向に水走と出てるんでアカンがやってことに気付く。私は
奈良公園を目指してるわけじゃない。
花園のラグビー場に行くわけじゃない。
八馬総合企画に行くわけじゃない。
なして生駒トンネルに向かってる?
急きょ水走で降りでUターン。再び阪神高速に乗って天保山方向を目指しました。
恐らくは私がカーナビを高速道路優先ではなくて、下道優先にしてたので一般道により松原まで行かせようとしてたのでしょう。間違いに気づいて環状線に戻りましたが、ここで3号線と5号線の分岐地点で私は左方向を選択。初めての湾岸線。初めての阪神高速5号線です。ワクワクとドキドキが止まらない。でも5号線では六甲アイランドで一旦下車して下道を走らねばならない。六甲を出ると何やら海の近くまで行きましたけれど道に迷いました。ナビがちっとも仕事をせんのじゃわい。朝の3時とか4時では周りには誰もおらんし、コンビニに入っても外人さんの店員しかおらんけん「I have no idea」としか言わんがや。アカン。一旦下道におりたら今度は上に上がれんけんどないもこないも。
迷ったなあ。ここでナビが一般道優先だから駄目なんじゃと気付き、高速優先で再検索すると生田川ICってところから何とか乗れましたわ。大阪市内に入ってからここまで来るのに迷いまくり。久しぶりの阪神高速は私にとって大変なことでした。だいぶ時間をロスしたな。
垂水JCTまでくるとまああとは早いよ。淡路島のサービスエリアに立ち寄ってガソリン補給。単価は何と204円也。ここで徳島のお菓子を買って会社の仲間の土産にしようず。さああとは淡路島を走行だ。
淡路島は南北に長いです。垂水JCTから鳴門まで70kmもあるのね。眠い目をこすりながらコンビニで買った眠気覚ましのガムを噛み一路香川を目指そうぜ。三本松で一旦立ち寄るか?高速を引田で下車したのは三本松の駅で例のぶどう餅屋さんの場所を確認するため。帰りにはここでぶどう餅を買うかもしれへんから。
国道11号線ではなくて12号線をナビが指示したので其れに従う。ここからは35kmくらいかな?大昔、木田郡三木町とか長尾を走ってるときシンナー吸った輩が数人道の真ん中に出てきて止むを得ず止まったら、その数人に乗り込まれしばらく運転させられたって事を思い出したわ。光景としてはあの時と今は状況が似てるよなあって思いながら、よくあの時は無事でいられたなと思うけど
マジで犯罪行為になりかねない奴等だった。
そうこうしてるうちにからとの坂を駆け下りて着きましたぜ実家です。でもまだカギが開いてへんがな。
そこで小学校まで行ってみることにした。
これが国分寺南部小学校ですわ。同じ敷地内に幼稚園と小学校が存在する立地です。
白く囲んだ建物が幼稚園。幼稚園から小学校までは自動的にという進路です。
この建物は今では幼稚園ではなくなっていて別の場所に建てられていました。当時の思いがよみがえってきましたが、幼稚園にいく時何故か4歳の私はよからぬ事を考えてでっかい木の棒を持って母とともに初登園することにしました。母が「あんたなんでそんなもん持ってるん」って聞いてきたけど私は其れを無視して幼稚園まで行くと。
そこには阿鼻叫喚の世界。いきなり棒切れを振り回して他の園児を脅します。そうです。暴力でこの世界を乗っ取ったれいと考えた私は幼稚園をしめたろかいなと思ってて木の棒を振り回して威嚇したんですけど、効果はてきめん。とんでもない奴が入ってきよったぞという噂が持ち切り。父母連中は驚くし、園児は私の行為に恐れをなして誰一人として歯向かうものがいない。この時から私は当園の番長の座に座り、その後小学3年生まで番長として君臨し、クラス対抗の喧嘩が始まると私が率先してやっつけに行きました。何故暴力でクラスを圧倒すればええんやという考えだったのかは全然覚えとらんけど、兎に角逆らう奴は徹底的に喧嘩を仕掛けてやっつけてひれ伏させるを繰り返し悪代官ゴーニィの悪行はここに極まれり。然しながらそんなことが通用したのは小学生3年まで。徐々に体格のいい奴が身長ぐいぐい伸びてはたから見ても俺ってそんなに強ないでってのが丸わかりとなり。実は喧嘩は弱いのよねんってのが露見して番長時代は自然消滅。あとは普通の小学生ですね。
小学生1年の時マラソン大会が実施されました。
この辺がマラソンのスタート地点ですけど、昔は信号なんてなかったし整備された道もなかった。この信号機がある場所から左方向(スーパーが見える方向)が私の帰り道なんですけど、この辺は周り一体が全部田んぼでしたわ。道はといえば道幅50センチくらいのあぜ道で其れを北上して家に向かうんです。秋口には帰り道の途中で柿の実がなってるんで其れを学校帰りに勝手にむしり取っておやつ代わりに食べてました。ある時1回だけそのせばいせばいあぜ道に1頭の牛が紛れてきたんです。道幅50センチで牛と対面するとメチャクチャ恐いっすよ。猛烈なスピードで迫りくる牛を寸前で田んぼに逃げ込みかわしましたけどあの時は怖かった。
さあて年に1度のマラソン大会の始まりです。
「CsikosPost」(馬を使った曲芸)
各馬一斉にゲートイン。いや違った全員がスタートラインに用意ドン。笛がなってマラソンの始まり。クシコスポストの音楽が流れ意気揚々と走り始めますが、この辺りの沿道に小学生の父兄が応援に来とるんです。正確には父とか母が子供の晴れ姿を見たい思うて応援にくるんやけど、其れを尻目に私はいっつも冷めた目で見てる。勿論私の親なんかが応援に来るはずがない。こんな子供のマラソンぐらいで応援に来る親の馬鹿面が阿保らしいと思ってたんで私は絶対にこいつ等には負けんとこうと思うて念入りに作戦を練る。その心は
スタートした時点ではドンケツ。一番最後からよれよれになって走る俺様の姿を見てあざ笑う他の父兄たち。お前はどんくさいのうという声を尻目に私が本気になって走るのは後半から。
白く囲んだところが元あった小学校
おう半分くらいまで走ったか?500m行ったところで折り返し合計1kmくらいの走行距離やけど、小学生低学年の子供が1kmを全力疾走できるわけがない。後半必ずばてるからとタカをくくり、前半は超スローで後半の手前から全力疾走よ。
ここやここやここや
この辺で折り返しの棒を立ててたから私はその棒をタッチして
全力疾走。ごぼう抜きです。
見る見るうちに全員を抜き去り1位に躍り出て最後まで駆け抜けます。さっきまで沿道で応援してた父兄たちは俺の顔を見るなり。なんやお前、さっきまでドンケツやったやんかって驚いた顔。この顔を見るのがたまらんくてマラソンで1位になるんやけど。マラソン大会で1位になる事が目的ではなくて、たかがマラソン大会ぐらいで応援に来るバカな親たちに一泡吹かせたい一心で勝つ心意気やな。
大体小学生の1年や2年の子供が1kmを全力で走りぬく体力ある訳がないけれど、親が応援に来る子供たちは親に良いとこ見せようと思うて最初から全力で走るんやわ。そういった心理を知ってたから、私はその心理の逆を突いて初めちょろちょろ中ぱっぱ。後半の手前50mから全力で走り始めて後半になってすぐに全員をごぼう抜きや。ここや!ここで走り始めたら追いつくって距離を正確に計算しながら。どこで仕掛けるかを常に考えながら走ってて
その作戦が功を奏して小学生1年から3年まではマラソン大会で1位を取りました。
然し、ここでも4年になると体力の差が顕著になってくる。4年ぐらいになると最初から割と高速スピードで出て行っても最後までスピードが落ちない奴が現れます。4年になった年の冬に私は自分で遊んでたコマを踏んでしまって足の裏に怪我をしてしまったんです。足の裏の怪我というのはなかなか治らんでな。正月にコマの尖った剣先を踏んづけて足の裏に穴が開いたんですけど、足の裏ってのは常に傷口が地面に接触してるんで治らないんすよ。マラソン大会は2月前半やったけどその間完治せず。結局マラソン大会には怪我を押して出場したけれどまともに走れなかったです。散々な結果に終わり私のマラソン大会は終わりました。3年間王者だったのにって思って悔し涙を流したけれど、それ以降は体力の差が歴然で身長の高い子には歯が立ちませんでした。
だから私の天下は何事にも小学生3年まで
それ以降は、ケンカは弱いし足も遅いってのが露見して番長失格。
まあそんなもんですわ。
マラソン大会のコースが当時のまんま残ってたのには驚いたけど懐かしさもあって感慨にふける。その後家に帰るとようやく母に再会できたので喜びもひとしおだがやることがあるので10時頃家を出る。目的はまずは美味いうどん屋に行くこと。夏の帰省ではあまりにも客が多くて車を停めれなかったから今回は朝の10時に到着。其れでも結構満席。しばらく待って注文をするけど大抵このような時私は、暖かいかけうどんと冷たいぶっかけをひとつ頼む。うどん屋の味を品定めするときは、余分な玉子などご法度。釜玉を頼む奴は大抵はミーハーだ。味はうどんと出汁だけで良いけれど、麺は暖かいのと冷たいのを両方比べてみたい。
器に盛ったかけうどんとぶっかけ
このふたつを見ただけで俺はアカンと思ったよ。味見しなくても大体の味は分かる。あーあやっぱ駄目か。俺様くらいになるとうどんってのは食べなくても見ただけで味の想像がつくんだよ。何でかというと次の画像。
讃岐うどんは腰があって美味いって思ってる人が殆どだと思うけど其れは大間違い。腰があるのはただ単に硬いだけでうどんの美味さとは関係ない。硬いのではなくて柔らかくて弾力性がある。20代のお肌がはちきれんばかりに弾力性があって押し返すのと似てるけど、美味いうどんは噛むと弾力性があって押し返してくる。まるで麺にタコの吸盤が付いてるのかと思う程、舌にギュッとくっついて離れない。嚙んだ時にタコの吸盤みたいな触感があるのが美味いうどんであって、それは硬いうどんととは違う。其れが故噛んでも容易にはブチ切れずに嚙み切れない。ところがこの写真のうどんはどうだ。
多分水でしめてるので硬い触感はあるだろうが、噛めばブチブチと嚙み切れて簡単にちぎれてしまうだろう。弾力性のない麺だということは見ただけでわかる。良いうどんは麺がもっと滑らかで光り輝いている。ブツンブツンブツンって切れそうに見えない。
失格でした。残念です。大晦日に営業してる時点でダメか?
その後は屋島に向かいます。
屋島は昔は島でしたが今は陸続きなので単なる山に見えます。この山の頂上に屋島寺があり、そこからは屋島源平合戦のにおいを感じとれる場所もあります。
頂上までの道すがらに源平合戦が行われた場所がありました。下の画像からこの景色、瀬戸内海の向こう岸に平氏が陣取って、こちら側に源氏がいたことが分かります。ここで那須与一が弓矢を放ち、扇を射抜いて大いに盛り上がったということです。
屋島スカイウェイの道中でこの景色を撮影しました。従って屋島スカイウェイ側が源氏がいた場所。その反対側が平氏がいた場所ですね。因みにこの画像で屋島寺から西の方角に見える島が女木島と男木島。女木島の方を鬼ヶ島と申します。西に屋島寺、東に八栗寺に挟まれて源平合戦が繰り広げられた訳です。今回八栗まで行こうかとも思ったけれどヤメときました。八栗も五色台さながらの激しいヘアピンカーブの連続で山に登るのに一苦労。八栗のヘアピンカーブと五色台のヘアピンカーブは下手したら事故につながるので年末とか元旦には行きたくないって感じ。正月早々事故起こしたらとんでもなく凹むのでここを攻めるのは次のお盆ですね。
新年早々事故起こしたら大変だ。
日も暮れようとしているなか、矢たけびの音も静まり両軍ともに体制を立て直していたところ平家軍船の中から一艘の船が近づいてきて岸まで八、九十メートルのところで横向きに止まります。みれば船の舳先に紅一色で真ん中に金色の日の丸を描いた扇をつけ十八、九歳ほどの優雅な女房がまねいていました。後藤兵衛実基が義経に「扇を射よとの合図でしょうが、おとりかもしれません。従者に射させるのがいいでしょう」。と進言したところ、弓の名手那須与一宗高が選ばれました。目を閉じ「南無八幡大菩薩、我が国の神は、日光権現、宇都宮大明神、那須の温泉大明神、どうぞあの扇の真ん中を射当てさせてくださいませ。これを射損なうものなら弓を切り折って命を絶ち、人に二度と顔を合わせることはできません。もう一度本国へ迎えてやろうとお思いならば、この弓を外させないでください」。そう祈ったあと与一は駒立岩まで駒を進め矢を放ちました。「弓は強弓で浦一体に響くほど長く鳴り響き、誤りなく扇のかなめの際から一寸くらい下を、ひいふっと射切った。鏑矢は海へ入ると、扇は空へ舞い上がった。しばらくは大空にひらひらひらめいたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散った。夕日が輝いているなかに金の日輪を描いた皆紅の扇が白波の上に漂い、浮いたり沈んだりしてゆらゆら揺られていたので、沖では平家が船ばたをたたいて感嘆し、陸では源氏が箙をたたいてどよめいた」。命をかけ見事に扇を射抜いた与一を平家物語はこのように伝えています。
エヴァンゲリオンのヤシマ作戦の元になった構図ですね。
シンジ君が的を狙い定めてラミエルの頂点に打ち抜きます。この姿が那須与一に似てるのでそう呼ぶようにしたんでしょうけど、屋島を知らない人間がヤシマ作戦って呼ぶのは面白い。因みに那須与一は平家だったか?源氏だったか?って思うときもあるけど那須という固有名詞でこれは関東のものだとわかる。だから那須与一は源氏なり。
讃岐屋島へ
2月18日
頼朝の平家追悼の命に従い義経は、軍監であった梶原景時に本隊を託し、大将自ら僅か150騎ほどの軍勢を引き連れて摂津から暴風雨の中舟を漕ぎ出し、阿波勝浦に上陸しました。数千ともいわれていた平家軍団を背後から急襲しようというのです。上陸後、伊予河野氏攻略のため手薄となっていた平家方の城を攻め落とし屋島へ急ぎます。峠を越え讃岐に入った源氏軍は、丹生辺りから海岸沿いと内陸路の2隊に分岐、義経本隊は内陸路を長尾から三木そして屋島へと迫っていったのです。
源平屋島合戦
2月19日
午前8時頃、丹生で別れた支隊と合流。源氏勢は地元の豪族も味方に引き入れ300騎ほどの軍に膨らんでいました。屋島の南、今の高松辺りの一体の民家に火を放ちながら平家の総門を占領します。時を同じくして後藤兵衛父子、那須与一ら30余騎は浅瀬の赤牛崎から屋島に上陸、安徳天皇の行宮へ向かい平家内陣を悉く焼き払ったのです。屋島の対岸、五剣山の西麓に数百隻にも及ぶ軍船を隠し海路からの源氏の襲来に備えていた平家は思いもよらぬ背後からの急襲、火攻めに源氏の大軍が襲来したとばかりに慌てふためき、辛うじて船で沖へと逃げます。沖に出てようやく落ち着きを取り戻した平家。陸を振り返れば僅か300騎ばかりの源氏の奇襲だったとようやく気付いたのです。以後沖の平家船団と浜に駒を進めた源氏騎馬軍団の壮絶な戦いが繰り広げられました。
2月20日
昨日に続き牟礼浜海岸で源平両軍譲らずの戦いが続きます。この日の戦いで那須与一の扇の的など数々のエピソードが残されました。戦いの中、平家は伊予河野氏攻略中だった1000余騎の軍団到着を待っていました。教経はこのことを悟られないように「七縦七檎の策」をとり義経の注意を海上に引きつけました。
※七縦七檎の策⇒諸葛孔明が南蛮攻略で使った戦法。押しては引き押しては引き
2月21日
早朝、平家は船で八栗半島の北を廻り志度に上陸し源氏勢を背後から攻める最後の作戦に出ました。この奇襲作戦を義経はいち早く察知し、80余騎を引き連れて志度へ急行。源氏優勢と見た讃岐の豪族や瀬戸内海水軍は旗を翻し源氏に加勢。志度寺付近で平家に壊滅的な打撃を与えたのです。伊予から田内左衛門以下1000余騎の援軍が到着するも桜間介能遠に平家不利と説き伏せられ解軍。最期の望みを絶たれた平家は屋島に引き返そうとしますが、義経の軍監・梶原景時の大船団が来るという噂にも翻弄され2月21日夕方、屋島を後にして西海へ堕ちていくことになるのです。
屋島寺に着きました。
ここが思い出の地。私が初めてナンパをした場所なのですが、ひとりは背の高いきれいな子でもう一人は小太りの外見などお構いなし風の子。この二人組の女子高生を見て私たち3人は誰がナンパするか話し合いしばしこう着状態が続きます。松山商科大学の福井君と京都産業大学の伊藤君。君たちがいけよと思ったけど一向に動かないのでしびれを切らして私が声をかけに行きましたわ。せっかくOKしてくれたものの電話番号を聞く勇気さえなくて出会いはその日限りでしたけど、私にとっては良い思い出也。40年も昔の事が走馬灯のように思い出されます。幸せなひと時です。
これが屋島名物かわら投げ
ここから海に向かってかわら投げです。川に向かって薄っぺらい石を「水切り」するのと同じ要領で投げます。何でこんなことが流行ったのかは分からんけど昔はここに来るたんびに投げていました。目の前に見える島が鬼ヶ島ですね。
※左が女木島(鬼ヶ島)、右が男木島
屋島を下山してこの日はおしまいです。
翌日はいよいよ金刀比羅宮参りですね。
香川県には有名なものが3つあるんですけど、其れが何か分かりますか?
ひとつはうどん
もうひとつはため池
最後のひとつは、カンカン石ですね。
香川県の五色台という山には5色の色をした石が採掘されるのでその名がついてるんですが、そこにはキンコンカンと鐘を鳴らしたような音を発する石がありましてその石の事をカンカン石と言います。金刀比羅宮にお参りした時出店の一角に販売されておりましたが、上記の画像。木製の球で叩くと甲高い音が響き渡ります。この石が横幅15センチくらいなんですけど、この大きさで18000円という値がついていました。非常に高価な石ですね。
今回香川に帰ったのは母に会うため。金刀比羅に参るため。もうひとつは美味いうどんを食するためですが、元旦からうどん屋は開いてないだろうと思ったので元旦の朝金刀比羅宮に行くことにしました。家からは先ずは国道32号線を目指して琴平町まで参ります。
金毘羅舟舟 追手に帆かけて
シュラシュシュシュ
回れば四国は讃州那珂の郡象頭山金毘羅大権現
いちど回れば
江戸時代には江戸からはお伊勢参りが一生に1度の楽しみとして。大阪からは金刀比羅宮参りが一生に1度の楽しみとして船でやってきたらしく、当時は伊勢神宮と金刀比羅宮は国内観光旅行としては2大スポットでした。建物ができたのは1001年だそうですから、当時は末法思想の真っただ中に建設が開始されたという事で、この宮を作ることには相当の尽力があったものと思われます。末法思想の影響は知る由もないですが、この山の山頂までに1368段の階段とそれぞれの神宮を建設するのは並大抵の努力ではなかったかと想像されます。戦国時代の山城を建てるのと同じくらいの労力を要すると思うけど、其れが戦国よりも600年も昔に創建されたという事実は驚愕以外の何物でもありますまい。
入り口近くまで行くとそこかしらに、おねえさんが寄ってきてここ停める?って聞いてきます。早めに停めないとこの先渋滞するし10:00からは車両が通行止めになるからかなり手前で駐車場に止めました。1300円かかります。
さあいよいよ登頂ですね。胸躍り血が騒ぎます。
ハイ。これが1段目の階段。この先ずっと階段です。
道の両側には出店がずらっと立ち並びます。
杖を売っている売店もあります。杖を突きながら上まで登る人はかなり多いです。
ハアハア ヒイヒイ フーフー
300段くらい登るともうしんどくなってきました。
単純に神社と言われる建物だけでも10個くらいありますね。これだけの建物を山の頂上までに作っていくのは考えられないですね。昔の人は凄かったとしか言いようがありませんが、一体この費用をだれが工面したのか分かりませんが、天皇の命で日本全国に金刀比羅宮が創設され本宮はその総本山として、他県にある金刀比羅宮とは比べものにならないほど壮大です。
これが628段目の旭社
ここから785段目の御本宮。1368段目の厳魂神社まで参ります。
これが御本宮までの最難関。死の階段と言われるところです。警備員が何十人かに区切って登頂させるからしばらく待機です。この階段を一気に駆け上がると息が切れてめまいがしそうになるけれど
御本宮に到達しました。初詣の時はここでお参り。この前ここに来たのは大学4年の大晦日で洋子はんと一緒にお参りしました。その時は真夜中なのでここから先には進まず、御本宮でのお参りで下山しましたが、ここから先の奥社は高校時代か中学時代以来の事ですね。洋子はんと一緒に来たときは既に内定が出たあとなので彼女としては、3か月後には別れることを承知しての事だったと思うので複雑な心境ではなかったかと思います。恋人と大晦日に出る初詣は嬉しいに違いないけれど、あとちょっとで別れるのに何を祈れば良いのだろうと。
あの頃はそんなこと考えもしなかったけど
今この場に立ってみて初めて彼女の気持ちが分かったよ。女性ってのは偉大ですね。思えばその年の初めにお付き合いが始まろうかって時期にそんなことくらいは分かるので付き合いを躊躇うというブレーキがかかっても良さげなのに、人の気持ちは容易には割り切れず自分の本能に負けてしまう。人を好きになるという気持ちは物凄いエネルギーなんだろうなって思うけど、内定が決まって恐らくは香川を出るんだろうなっていう時期になっても彼女はそういうのをおくびにも出さなかったので当時の私は気が付かなかった。内心内定が決まってからは来年の3月には別れが訪れるんだろうなあってことを承知でお付き合いが続いていた訳。香川に残って欲しいというのを全く見せなかったのは、男の人生を邪魔しちゃいけないという女心なのでしょうか?今となっては分かりませんが今、御本宮を目の前にしてふとそんなんことを考えていました。
あの頃の俺は配慮が足りなかったな。初詣なんかに誘うべきじゃなかった。
彼女曰く、何を願うのよ?
奥社に向かう最後の関門です。かなりキツイ。
奥社の手前でかなり待たされます。参拝客のお参りを待ってるところ。15分くらいは待たされました。
ようやく奥社まで辿り着きました。
ここでは天狗を祀ってますけどね。右が天狗で左が烏天狗
ここから見る外の景色。遠くに讃岐富士が見えますね。こうしてみると形は本当に美しいけど、間近で見るとショボイから人に自慢するような山ではありません。昔ウッチャンナンチャンの番組でナンチャンが讃岐富士を自慢してたけど、あまりにもショボイので皆から馬鹿にされてました。香川の名物とか誰かに自慢するとかそういうのは野暮です。一応日本の100名山には入ってるんで其れなりに評価はされてますが一般的なテレビ受けはしないですね。標高420メートル。正しくは飯野山と言います。因みに南原清隆さんは私より学年が2個下。大学時代、高松のオリネンタルモータースで私が夏休みにバイトしてる時一緒になってバイトしてた仲。その時彼は横浜の専門学校に通ってる言うてましたな。
皆ここで外の景色をバックにして自撮りしてるので私もやってみました。
本邦初公開
かなり頭が剥げとるけどな。まだ男前やろ。
下山します。帰り道で腹が減ったのでうどんを食す。元旦から営業してるうどん屋はここくらいのもんやけど味は?
うどん屋発祥の地とか。好き勝手なこと書いとんな。ホンマかどうかは分かりません。
この後は満濃池の方に向かいます。香川県にはため池が大小16000個もあるようで、その中でも満濃池は日本最大のため池として知られています。周囲が20kmにも及ぶ広さと水深21mというのが何とも恐ろしい。ため池というよりは湖っていう感覚なのですが、これは弘法大師が作った池らしい。ため池の水を田園に引っ張り込んで稲作をやるってことですね。
多分こんな写真では広さは実感できないな。
満濃池に関しては、この辺に住んでた大学時代の仲間との麻雀が思い出深い。彼は銀星とは別のグループのパチンコ仲間。ヤクザみたいな風貌で親分肌やったけど、ある時その子分みたいな奴が俺に嘆くのよ。ヤクザは俺たちより学年がひとつ上。その親分に頼まれてやれば絶対に勝てそうなパチンコ台をその人に譲ったそうな。譲ったといっても実質その親分が俺が打つからお前は引っ込んでろみたいなやり取りで無理やり取り上げられたとのことだけど、その台が爆裂して7,8万勝ったらしいわ。とんでもない勝ち方やと思ったけどそいつが泣きながら、俺が打ってても同じ結果になっとんたんかな?と私に嘆くわけ。そりゃやってみな分からんけど同じ結果になるかどうかの検証は不可能だから
分からんとだけ答えたけれど
彼は納得がいかんらしい。ほな最初から譲らんかったらええんや。
左に高岡はんがいて、右がその満濃町に住んでる親分で始まった3人麻雀。配牌から手が腐ってたので私はすぐに国士無双を狙いにいったけど、親分の手の様子もおかしい?アレ、こいつも国士なのかと思いながら手を進めると場には中が3枚切れました。この時高岡はんが中を3枚切ったんか、其れともドラ表示牌が中で高岡はんが中を2枚切ったんかは覚えとらんけど、兎に角中が3枚切れ取ったんは確かなのよ。手が進んでテンパイしかけたけど中の3枚切れがどうしても気になる。親分も国士を狙ってるんなら、親分がテンパイしたら私は100%和了できんから。3枚切れの中は親分が手の中に持ってるに違いないと。
その思いが捨てきれず、手を進めるかどうかで悩む中9万と南がトイツになった時何気なしに私は場に1枚切れた南を切ったんです。しばらくするとテンパイしました。
ドッキドキです。親分が国士じゃなかったら中を切るはずと思っていると、終盤になって私が9万をツモ。これで999万となったのでこの牌を切らざるを得ない状況なのですが、私は9万をツモった瞬間この牌は当たりだと直感しました。終盤になっての3枚持ち。ここでしまったと思ったのはさっき1枚切れの南を切ってしまったこと。トイツにする牌はどうせなら場に少しでも出てる牌の方がアンコにはなり難いですよね。南と9万とで迷った時に、ションパイの9万を残して南を切ったことを後悔しましたが後の祭り。どうするべきか悩んでいたけれど、親分が絶対に国士をやってるとは限らん。トイトイ系の可能性もあるだろうと思って9万を切ると
ロン
国士無双32000点
人生で初めて役満に振り込んだ瞬間だったけど
国士無双を聴牌してて
国士無双に振り込んだ
屈辱的な事件でした。振り返れば親分が国士狙いのは明確だったわけだし。彼が聴牌してんなら私の和了牌はゼロですから、上がれる可能性はないので無理して突っ込んでいく必要はないのですが、もしかしたら国士じゃないかも知れんという限りなく低い可能性に賭けました。親の高岡はんがリーチをかけて、親分がもし国士をテンパイしていなかったら中を切るだろうと。
普通の人間ならこの九万は止めるんだろうけど
何回麻雀を打ってもこの九万は止められない。其れが私の人生ですね。
家に帰ると母が雑煮を用意してくれてたので其れを頂きます。香川の雑煮は普通はあんこ餅を入れるけど、私はあんこ餅が嫌いなので桜海老を混ぜた餅と青のりを混ぜた餅で雑煮を食べます。
この写真では分かり難いけど赤いのが桜海老。青いのが青のりを入れた餅。香川の雑煮は基本白みそに、豆腐と油揚げを入れて食べます。お雑煮くらい地方色が出る食べ物はないと思うけど私が今まで食べてきたのはこんな感じ。
ここで母と雑談してるとまたぞろ嫌なお話。否メッチャおもろいお話が聞けた。
四男の部屋に入ると炬燵の上に500円硬貨が山積みされていました。1山20段くらいの500円硬貨が6山くらいあってビックリしたけど何でそんなに溜めてるん?って聞いたら何かと便利だからという答え。フーンって思ったけど6万円くらいのお金が目に見えるところにあるのはどうなんだ?って思ってたところ。やっぱりこのお金に目を付けた人がいてトイレに行くと称して、四男の部屋に入りこの硬貨を1番上だけをかすめ取り。つまり6山あると上の1枚×6個だけをネコババしてる親戚がいたんですわ。この前の引き出しに入れといたお金のネコババといい此度の500円硬貨といいネコババが好きな家族やねえと思いつつも
大笑いですわ。
これに気が付いた四男が三男にタレコミお金は返してもらったそうですけど、盗んだ本人にはもうお年玉はやらんという事になる。当たり前ですね。私もそんな話を聞いたからには四男に同調するけれど、母は何故かこの子が可哀想になって、今までお年玉として1万円渡していたものを⇒15000円にして渡すようになったというから何とも優しいお話ですね。
他人に優しいのと甘いのは違う。
今まで母と四男が1万円ずつ渡していたお金。四男がお年玉をやらんようになったものだから、母が今までよりも5000円も増額してあげるというお涙ちょうだいは優しさとは異なり。まあ老い先短い人生だから、何をしても構わんけどそのような事を続けていては絶対に本人の為にはならんやろうなあ。お金は絶対に人の目につくとこに保管してはならんと思う。盗んだ方も悪いけど、目立つところに6万円ものお金を置いとる四男もどうかと思うで。
うどん巡りの旅
元旦はどっこも開いてないから金毘羅さんに行ったけど、2日となるとまあまあ営業してると思ってうどん屋巡りをしようと思っていました。ところが2日ではまだあんまり営業してないのが現実でこの日は1店舗しか行けず。美味いと言われるお店でしたが、やっぱり味は今イチで消化不良の1日。やっぱり本当に美味いうどん屋は、正月の三が日には営業しとらんのかいなって思いましたがこの日立ち寄ったうどん屋で並んでる間に地元の人とお話ししてるとどうも香川で1番美味いうどん屋は坂出の「がもう」らしいですわ。盆と正月は殆ど営業していないらしいんで私には縁がなさそうだけど
坂出 がもう0877-48-0409
綾川 香川屋087-876-3329
綾川 山越うどん087-878-0420
綾川 かわたうどん0878-79-8686
高松 さか枝087-834-6291
高松 バカ一代087-862-4705
今度帰省した時はこの辺のお店に行こうか。がもうは行けないけど、それ以外の5店舗を食べに行きますわ。40年前にはどこで食っても旨いと思ってた讃岐うどんやけど、元々うどんひと玉300円くらいで営業してる店が多かったから儲からんで廃業したお店が凄い多いと聞きました。今では超が付くほどの行列を為すお店でしか美味いうどんは食べられんみたいなので時代は変わったなあと思ったけど、食べる方の味覚も劣化しているようで今回お邪魔した2店舗は普段から大変な行列を為した店。そのような店でさえ、私の味覚には満足できるレベルではなかったから上述した6店舗も疑心暗鬼なり。上の6店舗でさか枝は私が香川大学時代に行ってたお店なのでそこだけは美味いと思うけど、それ以外は食べてみな分からん。
客の舌も劣化しとるし
店の味も劣化しとる
40年の時を経て讃岐うどんは随分と劣化したと思う。
そんな訳で明日になっても美味いうどんにはありつけそうにない思うたからもう帰る。1月2日の夜になってお袋に、今日の夜中に帰るわと告げると、何とも悲しそうな目をしてたのでこれからは年に2回は帰ろうかと思うちょる。後になってETCの通行料金を確認したら予想以上に安かったんで毎年、お盆と正月には車で帰りたいと思う。行きは新名神を使ったから8700円もかかったけど、名阪国道経由なら5860円なんで思ったよりも全然安い。昔は高速道路の料金はkm25円やったから
385km走ると385×25で9600円くらいはかかったはず。
名古屋ICから沼津まで行くのに5000円だったから。200kmの道のりを走るのに5000円だったんで、400km走ると1万円が相場なり。それがETCの割引と軽自動車による低価格料金ってのが大きい。其れと東名阪自動車道は亀山以西は、名阪国道になって天理までは無料で行ける道路だからこの間の100kmが大きいのかな。385kmといっても
四日市東までの40kmと
亀山から天理までの100kmと
大内から実家までの40kmとで
実質有料道路区間は200kmなんでね。橋渡るのに2000円くらいはかかってるから、陸上では3860円。という事は3860÷200で1km当たり19.3円で通行できるってことだな。昔よりもかなり安いじゃん。
多分四日市東じゃなくって亀山まで下道で走ってもそんな時間は変わらんはず。ならば四日市東から亀山JCTまでの760円も節約するともっと安い料金で行けそうな気がする。夜中の走行なら上で行っても下で行ってもあんまり変わらんけんもっと安い料金で帰れるプランを構築するよ。間違っても新名神は通らんとこ。
母の悲しそうな顔を見て、もっと長いこと居て欲しいんやろなとは思ったけど渋滞は避けねばならんからなあ。母があと何年生きるんか分からんけど、生きてる間はできるだけ親孝行しとこうと思うて夏と冬には帰るからと約束しておいた。お盆にはまた来るからと母を慰め心を鬼にしてまだ早い時間に眠りにつく1月2日の夜。殆ど寝れんかったけど、12時半には帰る準備をして
いざ出発じゃ。
真夜中の1時。寒い寒い夜をひとりで帰るのはちょっと寂しいけど、また8カ月後には戻ってくるんだから。
今回の旅の総括
(1)阪神高速道はややこしいからMAP化しようず
(2)金刀比羅宮登るんはメッチャ楽しいまたこよう
(3)うどんは完全に失敗。次はお盆
(4)屋島と小学校は懐かしさいっぱい
(5)ポチ袋3つは持って帰らんと
(6)母親とはできるだけ一緒にいてあげよう
お袋には惜別の情が湧いてくる。長生きしてくれよ。
今回屈辱的な過ちを犯したので次からは絶対に間違えない。阪神高速を完全MAP化。門真から東大阪に向かう時に何故か左に曲がって西石切ICに行ったけど、ここは左ではなくて右だったな。ここまで来ると5号線経由でも3号線経由でも松原ICに向かう必要はなく阪神高速13号線から天保山方面16号線を目指せば良かった。阿波座JCTのところで自分は3号線を選ばず、5号線を選んだがどのみち3号線に戻ってこなならんから次からは普通に3号線経由で垂水JCTまで行けばよかろう。六甲アイランドで道に迷ったのが納得いかんので、もっかい5号線を選ぶという選択肢もあるけど、其れはお盆とか正月のような時期にはトライせずもっと閑散とした時に再度行ってみるよ。
阪神高速はもう完璧に理解したで
今回の旅はピッタリ1000kmくらいでした。
金刀比羅宮参りはやっぱり楽しい。皆様も香川県に来た時は、うどんだけやのうて是非とも金刀比羅さんをお参りしてください。1368段の階段はしんどいけど奥社まで行った時の達成感は半端ない。何年か前にレイリー、トラマツ両名が金刀比羅参りして足がガタガタになってもう無理もう歩けんと嘆いていたけれど、実際にはそんなに言うほど酷な環境じゃないっすよ。あいつ等は何事にも大袈裟じゃ。今回も私はこともなげに上まで登ったけど、これが登れんようになったら人生も終わりです。300段くらい上がった時に一休みしてた女子高生二人連れが、さっき登ってきたんよ。もっかい登ろうかと思うてる。
凄い人もおるんですわ。
コメント
ゴーニィ様
明けましておめでとうございます
本年も宜しくお願いいたします
自ら運転しての帰省と大作の投稿、ご苦労様でした
飛び石でのガラス破損は痛かったでね…ディーラーなら全交換でしょうが、傷の深さにも依りますが愛知くらいの街なら補修出来る自動車ガラス専門工場も有りそうです。放置すると振動で傷が拡がり全交換不可避になるのでご注意下さい
福岡も中心部はそれなりの都会になりましたが、今回の金比羅さんの風景を見るに、福岡も所詮は県外資本頼みの戦後の成り上がりの街に過ぎないな~と感じます
写真を見るに、ダイエットも順調そうで何よりですが抽選待ちの早朝並びなどで体調を崩されません様にご自愛下さい
明けましておめでとうございます。
こちらこそ宜しくです。
飛び石はノータイムでガラス交換を選択しました。保険等級が1つ下がるけど、ガラス割れた状態で走ることはしないし、小手先の樹脂埋めで直しても、何かの衝撃で埋めた樹脂がぶっ飛びことを知っています。
貴殿に言われるまでもなく
フロントガラスのトラブル。対処法はこちとら百戦錬磨です。今まで何回、何十回と処置していますよ。常に車間距離を詰めた人生だから。
然し今回ETCで通過してみて意外と安いなあと思ったので、年に2回は家に帰ります。八栗寺と五色台スカイラインはもう一回チャレンジしたい。あのヘアピンカーブの連続は他県では経験できないなあ。
今度はお盆だな。
トラックとの車間距離、阪神高速、亀山までの下道。
やることがいっぱいできて幸せです。